大瀧坂の名は、はたして坂標のいう「かつて辰巳用水が滝のように脇を流れ落ちていた」ことから来ているのか。地名から、ではないのか。はたして、小字に「大瀧」があった―。
書いた日:2022年11月16日
MRO北陸放送で2022年8月16日放送予定『レオスタ』に出演します。ほくりくアイドル部の加藤千夏さんに「あめ買い幽霊」伝説に由来するあめや坂を案内しました。
書いた日:2022年08月09日
裏に用のある人も少ないのであろう、宝円寺裏の裏門坂は廃れる一方である。車が通れないせいもあるが、なにより「昔の木曽坂」などといういわれなき名がまかり通っているからだ。
書いた日:2021年12月13日
『金沢の坂道』取材中、ちょっと気になることがいくつかあった。場所を違えてそれぞれに名が付いていた卯辰山の獅子帰坂が、実は一点で結ばれた一本の坂だったことなど既に書いたものもいくつかある。本筋とは別の、気になることはまだまだある―。
書いた日:2021年05月18日
70坂についてコラムを書いた。書きながらマスを埋めてきた出典年表には75坂が入った。6年がかり。得たものは何だろう。金沢の地理に少々詳しくなった。それだけ? そうではないだろう。~迎えて最終回。
書いた日:2020年11月14日
藩政時代、越中五箇山から黒色火薬の原料「塩硝」を運んだ塩硝の道。その発着点の小立野段丘の崖にかつての塩硝坂はあった。今、塩硝坂と呼ぶ昭和の坂の両脇に1本ずつ。廃道となって消えかかっている。
書いた日:2020年10月29日
目抜きの本多通りからひっそり下りる坂が2本、茨木町にある。親が子を諭すためその威を借りたであろう天狗坂と、盲(めし)いた女性の門付け(かどつけ)があったであろう瞽女坂(ごぜざか)である。
書いた日:2020年09月30日
金沢城石川門の前に架かる石川橋はかつて土橋だった。土橋以前は土を盛った坂道だった。坂道の前は台地と台地の間の、フラットな谷底だった。今コンクリートに覆われた「土橋坂」。その昔を掘り起こしてみた。
書いた日:2020年07月28日
笠舞に、主計町(かずえまち)のものとは趣を異にするもう一つの「くらがり坂」がある。地元の人が親しみを込めて呼ぶ「暗ん坂」に、なんとはない、梅雨空を吹っ飛ばすカラッとしたものを感じる。
書いた日:2020年06月21日
さまざまな風が吹く。急ではあるが、怖くはない。ただ、上り下りがちょっとしんどいか―。その坂に名前を付けた人がいた。欠原坂(がけはらざか)。坂名に込められた思いを探る。
書いた日:2020年05月26日
日はめぐる。三味の音に包まれたこともある馬坂は、その昔、戦に備える一向一揆の城や砦の真っただ中だったことがある。隠し砦をつなぐ道に使われたこともある。変転著しいのだ。
書いた日:2020年04月21日
馬坂は「六曲り(むまがり)」しているのでその名が付いた。「まーさか」というなかれ。実際に上って(下りて)みて、足の裏の感覚でそう思った。フィーリングだからどうしようもない。
書いた日:2020年04月14日
金沢市郊外の医王山麓に軍道坂という坂がある。穏やかでない坂名はキゴ山のかつての呼び名である警護山に通じる。昭和の初めなら馬子唄の一つも聴こえてきそうな山あいに、いったい何があったというのか。
書いた日:2020年02月04日
金沢城へ戸室石を運んだ「石引き道」はよく知られている。その割にあいまいなままになっているのが石を小立野台地へ引き上げる坂はどこだったのか、ということである。はっきりさせよう。
書いた日:2019年12月20日
卯辰山にバスが上る市道卯辰山公園線と、麓から上ってきた常盤坂が接するところがある。そこから東に頂上に向かう坂と、西に三社の杜に入る坂がある。二つの坂はかつてここでつながっていた。
書いた日:2019年11月19日
湯涌温泉の手前の小山に、かつて村と村をつなぐ往道と呼ばれる連絡道があった。山の子どもらはここをも遊び場とし、はしゃぎ、鍛えた。驚異的な近代社会の発展で、山のなかの坂道はどうなったか。
書いた日:2019年11月10日
市街地を貫く国道159号線は古代からの北陸道の歴史の跡である。北国街道と呼ばれた藩政期、この道に犀川と浅野川の支流をまたぐ橋があり、付随して坂があった。いまは機能を失いかけた香林坊坂、枯木橋坂である。
書いた日:2019年10月06日
MRO北陸放送で2019年9月18日に放送された『絶好調W』番組内のコーナー(わがまちレガシー)に出演しました。バービーさんとザブングル加藤さんにいくつか坂道を案内しました。
書いた日:2019年09月18日
石川テレビで2019年9月12日(木)9時55分から放送される『石川さん情報LIVE リフレッシュ』番組内のコーナー「なんでも知りたい!調べ隊」に出演します。石川テレビアナウンサー今井 友理恵さんといくつか坂道を巡り、坂道の楽しみ方について案内しました。石川県にお住まいの方は是非ご覧ください。
書いた日:2019年09月05日
天神坂は2001年(平成13)、坂上の金沢美術工芸大学との間に頭上にけものみちを残した小立野トンネルができて現在の姿が整った。この坂、明治の中頃まではそのけものみちの一つだったことを知る人は少ない。
書いた日:2019年08月08日
小尻谷坂は2つあって、古い坂は下半分が石段になって今も残り、新しい坂には坂標が建っている。古いほうは小尻谷坂と呼ばれることもなくなって久しいが、ここに相撲部屋があったなんてビックリしたなぁ。
書いた日:2019年07月11日
賢坂辻は、旧材木町が町立てされて400年ほどはかぎ型の四つ辻だった。城下の流通消費地は近代に入っても地の利を生かして繁栄をつづけるが、昭和終盤の大通り化が辻に影を落とす。坂はこの間、何を見てきたか。
書いた日:2019年06月11日
坂の名の由来には地勢と関わっているものが多い。坂の語源が「境」にあるとすれば自然なことと言える。ただ、地勢の変化に坂名が伴わず、ずれが生じているものもある。金沢の坂道に、坂と人が織りなす合縁奇縁を見る。
書いた日:2019年04月19日
坂を下りて嫁に行く―。嫁坂には島倉千代子の歌を想わせる感傷がある。坂の途中で立ち止まって考える。あの人はその後どのように生きたのだろう。幸せだったのだろうか。今回は“嫁坂物語”のその後について。
書いた日:2019年03月27日
ご参詣の殿様はどうして崖道を通らねばならなかったのだろう。その疑問に答える書があった。殿様は野田山の前田家墓所のあと小立野台のお寺を回っていた。御参詣坂を通るのはショートカットだったのだ。
書いた日:2019年01月23日
2010年から撮りはじめた坂道の写真の中でもお気に入りだけを紹介する坂道の写真ブログをはじめました。金沢だけでなく東京の坂道の写真もあります。よろしければご覧ください。
書いた日:2018年12月15日
あめや坂(山の上町-森山2丁目)にまつわる「あめ買い幽霊伝説」。子を思う母の執念とは別に、命をつなごうと力を尽くして立ち回る人びとの姿があった。藩政初期、膨張するマチからはじき出された“山奥の隠れ里”の住人だ。
書いた日:2018年11月30日
金沢一の急坂はどこか。『サカロジー』は平均斜度22度の御参詣坂にその栄誉を与えている。じゃあW坂や馬坂はどうなんだ。美術の小径に続く坂なんて34度だぞ―。目くじらを立ててはいけない。斜度について考えてみる。
書いた日:2018年11月21日
寺町通りを瓶割坂・蛤坂から上る。W坂・桜坂があり、やがて寺町終点・長良坂、十一屋に入って不老坂、これを過ぎて御参詣坂が現れる。不老坂に御参詣坂と呼ばれた時期があったことはあまり知られていない。
書いた日:2018年10月27日
NHK金沢放送局で2018年10月22日(月)18時10分から放送される『かがのとイブニング』にて、昨年出演した『いしかわの壺』が再放送されます。主に坂道の愉しみ方の一つ、傾斜美について語りました。石川県にお住まいの方は是非ご覧ください。
書いた日:2018年10月03日
緩やかな河岸段丘上にあったのだろう、瓢箪町界隈には小さな坂が多い。「漏尿」と書いて「よつばり」と読ませる漏尿坂もその一つ。路地裏に、かつての“栄華”を秘めひっそりたたずむ姿は、なぜか愛おしい。
書いた日:2018年09月29日
テレビ金沢で2018年10月2日(火)放送(予定)、『となりのてれ金ちゃん』番組内のコーナー「仰天コロンブス」に出演します。石川県にお住まいの方は是非ご覧ください。
書いた日:2018年09月20日
あめ買い幽霊の話は市内4つの寺に伝わっている。近年は平仮名で書くようになった「あめや坂(飴屋坂)」はその中の一つ、卯辰山麓・光覚寺(山の上町)の門前にある。坂につながっているのはこの寺だけである。
書いた日:2018年09月07日
旧四高生が名付け親というW坂、城づくりの巨岩を運び上げた亀坂、昔からあったような白山坂・二十人坂。それぞれに画期的な出来事があった。年表を手直しするにあたり、もう一度、足もとを見つめる。
書いた日:2018年08月13日
「うみなり坂」という響きのいい名前を目にしたのは一年前のことだった。訪ねてみたい、と思ったのはそこが先年亡くなった友人の出身地で、一緒にハチメ釣りを楽しんだ能登だったからだ。
書いた日:2018年07月30日
坂道がときの政体と関わった珍しい坂がある。大乗寺が移転した跡に取り残された大乗寺坂。いったん消滅した坂が復活したのにはそれなりの意味がある。形成期の加賀の武士たちは、そして人びとはどう生きたのか―。
書いた日:2018年06月29日
「卯辰山十一坂」の一つ「一本松坂」が『サカロジー-金沢の坂』の国本昭二さんに名付けられて19年。かつての山道は坂として認知されつつある。農道だった往来が坂になる―。その辺をもう一探りしてみたい。松も4代目になっている。
書いた日:2018年06月13日
「遅刻坂」とも呼ばれる児安坂。石川県立金沢桜丘高校の校地にあって、そのいわれは麓の児安神社からきている。古いお社に由来する坂名と、学園らしいあだ名。そのギャップがおもしろい。“桜咲く園”に立ち入ってみる。
書いた日:2018年05月31日
谷間を流れる川があって、そこへ注ぐ川がある。今はたいてい暗渠になってしまったが、それでもよくよく見ると野山だった時分の原風景が想像される場所がある。そうだ、東京の坂を見てこよう。Go!団子坂へ。
書いた日:2018年04月30日
亀坂の周辺には、新しい道が開通して、そのために消えてしまった坂がある。一方で、観光とは無縁の、日々の暮らしに欠かせない坂、街並みに合わせた新しい坂がある。どっこい生きていた、線香坂と鶯坂―。
書いた日:2018年03月29日
亀坂付近を歩いていて、いろんな坂に出くわした。御小屋坂はその一つ。ただ、亀坂と連結している点で、筆者にとっては大発見のことがわかった。御小屋坂は本来、亀坂と直結していた―。
書いた日:2018年03月24日
亀坂は小立野台から笠舞へ下りる坂だとばかり思っていた。それにしても、築城のための戸室石をなんで笠舞まで下ろし、また引き上げたのか。台地上の旧湯涌街道をそのままくればよかったのに…。
書いた日:2018年03月11日