金沢の坂道コラム

天狗坂と瞽女坂 -本多家家中町の坂

天狗坂、瞽女坂(ごぜざか)とも加賀藩の筆頭家老職本多家の下屋敷である家中町(かっちゅうまち)にある。本多家の家臣が住み、受領名(非公式官位)から安房殿町とも呼ばれた下屋敷は、廃藩により本多町となる。2つの坂がある茨木町はその一角で、藩士茨木氏の邸宅ができたことから名が付けられた。藩政の昔も今も茨木町である。

天狗は伝説上の妖怪、瞽女は盲目の女性旅芸人である。この辺り、竪町、油車、里見町など昔ながらの町名が多く、だからこその天狗坂、瞽女坂と言える。ともに犀川の河岸段丘上にあり、50mほどの間隔で並行して西下している。歴史ある坂ながら坂標はなく、その名を知る人は少ない。子どもたちの畏敬の的だった天狗の威厳が失せ、門付け唄で三味線を弾く瞽女の姿が消えて久しい。

天狗坂


天狗坂

天狗坂


「北陸電力(石川支店)のちょうど後ろにある坂を天狗坂と言うた。天狗さまが棲んでおったかどうかわからんが」と『金沢の昔話と伝説』(1981年)にある。「とにかくすごいとこやったわ。木がうっそうとあってね。年寄りに聞いた話では、天狗坂は石がゴロゴロしとってあぶないと。天狗坂でころんだら、その傷は治らんと」。当時の古老が年寄りから聞いた話をしている。

ビルの裏側の住宅街となった今では想像するのも難しいが、「ビル前の小路(現在の本多通り)をはさんだ向こうは原っぱだった」と、子どものころのことを宮口優さん(79)=油車、新竪善隣館理事長=が話すのを聞けばなんとなくわかる。金沢はかつて「森の都」と称された。金沢城から少し離れるとそこら中に森や茂みがあった。筆者が子どものころ住んだ桃畠町(現野町3丁目)の家にも天を衝くような杉やビワの木があった。

「坂は門の役目もしていた」と宮口さん。「両側に本多さんの土塀がつながっていた。土塀の中に長屋があった」という。近所に住む先輩の郷土史家から聞いた話では、坂にはかつて家中町の地境としての番所と柵門(しがらみもん)があり、関係者以外の通行は禁止されていた。金澤古蹟志にその記述があり、「油車牛右衛門橋へ出る往来の坂路なり」とある。牛右衛門橋は鞍月用水に架かり、岩谷牛右衛門の邸地が近くにあったことにちなむ。用水には菜種油を絞り粉を挽く水車が架かっていた。「昭和30年代までは用水沿いに34軒の染物屋があった」と染色業2代目の宮口さんは回想する。


天狗坂を向く天狗中田本店の天狗の面

天狗坂を向く天狗中田本店の天狗の面


天狗中田本店(新竪町3丁目)は商号であり社名でもある「天狗」について『天狗中田本店百年史』(2007年)で語っている。天狗坂を下って牛右衛門橋を渡ったところに広見があって、そこに天狗屋という居酒屋があった。もっとにぎやかなところへ引っ越すというので店を譲り受け、それまで野町1丁目にあった精肉店をここへ移した。明治も終わりに近づいたころだった。「広見を天狗の顔に見立てると、細長い坂はまさに天狗の鼻」に見えたそうだ。広見は1971年(昭和46)、犀川大通りの開通で姿を消す。


瞽女坂


こちらのほうには竹やぶもあった。竹を切ってチャンバラごっこに使った。「急な崖になっていた」。宮口少年らにはこちらの坂のほうが遊び場に適していたようだ。


瞽女坂

瞽女坂


「御前坂」が本当の名で、「瞽女坂」は「でたらめ・こじつけ」という。加能郷土辞彙から引く。「金澤茨木町から本多町石浦旧社地(石浦山王社・現石浦神社)に通ずる坂路で、昔は社前への直道であったから御前坂と称した」としたうえで、「今或いは盲女坂と書いて種々の妄誕(ぼうたん=でたらめ)を付会(ふかい=こじつけ)するが、採るに足らぬ」とある。金澤古蹟志の論調を踏襲したと思われるが、切り捨てるようなもの言いが気になる。

天狗坂が北電ビルの裏側なら瞽女坂はビルの左端(南)から下りる。本多家の祈祷所でもあった同神社は現在地の本多町3丁目へ移るまでは日銀金沢支店がある香林坊2丁目(旧下石浦村-長町の一部)辺りにあり、下屋敷から一直線の道が社前に延びていた。ここに目を着けたのが当の本多氏。往来の中央に調練のための馬場を設けてしまった。道は曲がり曲がって神社にたどり着くことになる。その道はどこか。今、ビル街の裏道を迷路をたどるように歩いてみるのも一興だ。


中央に「ゴセ坂」とある(『安政頃金沢町絵図』より・県立歴史博物館蔵)

中央に「ゴセ坂」とある(『安政頃金沢町絵図』より・県立歴史博物館蔵)


でたらめ・こじつけとする見方がある一方で、金澤古蹟志、加能郷土辞彙よりは時代が新しい温知叢誌は「瞽女坂」を使っている。さらに新しいサカロジーの国本昭二氏も瞽女坂説を採り「この坂で三味線を弾き瞽女唄をうたい、お参りの人たちから花代をもらっていたのだろう」(金沢街かどウオッチング)と書いている。1824年(文政7)には城下に21人の瞽女がおり(国事雑抄)、さかのぼれば藩政初頭にはすでに音曲諸芸に秀でた瞽女がいた(三壺聞書)とされる。


瞽女に詳しいジェラルド・グローマー氏(1957年-)によると、1590年(天正18)に編まれた『節用集』で「御前(ごぜ)」は「盲女」とはっきり定義されているという。以下は著書『瞽女うた』(岩波書店、2014年)から。~室町時代の「盲御前(メクラゴゼ)」の「メクラ」は次第に消え、女性視覚障がい者は単に「ごぜ」と呼ばれるようになった。「盲女」はその背後に中世的な宿命観と、それが引き起こす受動的な態度が潜んでいる。一方「ごぜ」は女性の社会的立場、役割、職分などを重視し、より能動的な態度を前提としている~。

瞽女は「御前」という敬称に由来する。となれば、生業(なりわい)としての瞽女は、おそらく社前にいただろうし、その存在を差別(とは金澤古蹟志、加能郷土辞彙にはいっさい書かれていないが…)的に捉える必要もさらさらなくなる。天然痘と麻疹による失明は戦後、劇的に減り、瞽女唄のネタである心中事件が起きる封建社会のしがらみも払拭された。「過去と今日との間の生活感覚の隔たり」(グローマー氏)なのだろう。「娘売ろうか家売ろか」と近世の農民が突き付けられた胸の張り裂けるような思いは遠い昔の話になった。


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