金沢の坂道コラム

崖地の通勤路 ― 本多の杜の「家臣坂」

家臣坂(仮称)

家臣坂(仮称)


藩政期、斜度30度は超えると思われる坂道を、500人の武士が日々上り下りした通勤路があった。坂の上の出羽町に上屋敷、坂下の本多町から下本多町にかけての一帯に中・下屋敷を擁した加賀藩筆頭家老職、本多家。その家臣団が高低差10mの崖に残した一本の、復元見込みのない「サラリーマン坂」だ。

「御用坂」紹介から1年

本欄が始まって間もなくの昨年1月、県立美術館裏の散策のための木道の脇から県立社会福祉会館裏辺りに下りるつづら折りの坂跡を「復元される『御用坂』」として紹介した。上屋敷と、上屋敷の別邸として江戸中期に建てられた中屋敷を結んでいたとみられており、公の「上」から私的な「中」につづく道ということで筆者の勝手で「御用坂」と呼んだ。金沢市の復元計画に基づき来年度中に着工、年度内に遊歩道として完成させ、一般供用される見込みだ。


御用坂(仮称)

御用坂(仮称)


それでは、家中町である下屋敷の家臣たちはどの道をたどって「会社」である上屋敷に通っていたのか。そんな疑問に当代の本多政光さん(第15代・加賀本多博物館長)は「もう一本の道があったのではないか」と“幻の坂”の存在を示唆していた。博物館が前身の「藩老本多蔵品館」からリニューアル移転(県立歴史博物館に併設・昨年3月)したこともあって、気になりながらも保留。御用坂の紹介から1年経つのを機に本多さんを再訪した。


「陣立て」は1,130人体制

旧蔵品館の裏手、旧藩時代の塀跡の石積みがある雑木林の中に本多さんのいう「それらしき跡」があった。落ち葉の上に薄く雪を敷いた斜面につづら折りを思わせる急なカーブがあり、下方に流れている。その先は崖崩れ防止のためのコンクリート擁壁が幾重にも敷設されていて、道があったことを想像するのは難しい。ただ、現在、鈴木大拙館と中村記念美術館を結ぶ「緑の小径」の途中に上方に向かう踏み跡があり、「それらしき」道はそこへ下りていたのではないか、と推し測ることはできる。

大拙館はかつての中屋敷の敷地から少し外側に位置しており、家臣は中屋敷の敷地を踏まずに上り口へたどりつくことができる。そこからは犀川方面から広坂通りに至る10万坪(33万㎡)におよぶ家中町が広がっていた。1万坪(3万3,000㎡)の上屋敷も、のちに中屋敷が建つことになる下屋敷も初代政重が藩主から拝領した。下屋敷には藩臣となった分家の屋敷と500人の家臣住宅があり、その家族を合わせると2,000人余が住んだとみられている。本多家の陣立ては鉄砲120丁、槍200本を含む「1,130人」とされ、「少なくともその倍」の人数が居住したことは容易に想像できるのである。

崖地に三つの坂

下り口と上り口は分かったが、中間はどうなっていたのだろう。緑の小径から上り始めた道は途中で分かれ、一方は旧蔵品館裏へ出るが、もう一方は御用坂との中間にある「美術の小径」につながっていた。斜度34度(国本昭二著『サカロジー―金沢の坂-』)の美術の小径も痕跡をもとに復元された坂である。その途中に分岐点があったのではないか、という想像につながっていく。

分岐点からさらに直線的に下りる道があったかどうかは分からない。そのまま下りれば中屋敷にぶつかる。分岐点から緑の小径方向へ下りる方が緩やかで安全性は高い。逆に「あった」という仮説に立つと、なかったところへ道を下したのだから34度もの坂になったのかもしれないし、坂下に中屋敷を迂回して緑の小径に至る道が通じていたのかもしれない。


美術の小径

美術の小径


なにしろ500人の家臣団が毎日通る道である。加えて上屋敷はなにしろ広い。その広い上屋敷に入るのに右回りで入る旧蔵品館ルートと左回りの美術の小径ルートがあってもおかしくない。美術の小径を挟んで(坂上の上屋敷から見て)北に御用坂、南にサラリーマン侍が日々通った、仮の名を「家臣坂」とする坂の計三つの坂があったことになる。美術の小径は家臣坂の一部ということになる。


本多家上屋敷 周辺イメージ図

本多家上屋敷 周辺イメージ図


「うっすら」と「つづら折り」


絵図で確かめてみる。加賀本多博物館所蔵の「上屋鋪御館惣絵図(かみやしきおやかたそうえず)」=文久2年(1862)=や金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵の「本多家上屋敷図」(年未詳)に描かれた崖や道の様子からかすかな痕跡が感じ取れる。坂そのものは描かれていないものの、「うっすら」と「つづら折り」が浮かんで見える…ロマン感覚というやつだ。

市文化財保護課によると、3ヵ所の石垣のほかに、美術の小径を挟んで南北に2ヵ所の門跡と塀跡、それに二つの門から屋敷の外側を回って「裏坂御門」へ続く道跡が現在、史跡公園として残っている。北側の門跡は塀跡が食い違う形で切れており、ここに門があったことが分かる。両側に袖壁のついた御用坂の門である。南側の門跡は直線的な塀跡の途中にあって、美術の小径から来た家臣の通用に使われたとみられる。本稿でいう家臣坂は絵図からはみ出たところにあり、入口には簡素な木戸が設けられていた。

もっとも、地形そのものは時代によって改変されていることから、家臣坂はこれ1本とは限らなかったようだ。幕末に作成されたこの絵図には御用坂のさらに北側にも家臣が利用したと思われる2本の坂が描かれている。どれもが単なる坂ではなく、それぞれに階段状の雁木坂(がんぎざか)を思わせる横線が引かれている。

生物多様性に富む本多の杜

家臣坂はしかし、復元されることはないだろうと本多さんはみる。急斜面で手が付けにくいことと、タブノキ、スダジイ、アカガシなどの巨樹が繁り、タヌキが住み、アオバズク、ヤマガラ、キビタキなど鳥類の姿や夏には蝉しぐれが楽しめる生物多様性に富んだ貴重な森になっているからだ。市も「危険」を主な理由に復元は考えていない。

小立野台にはかつて旧陸軍の施設が多くあり、崖地を塀で囲ったことからこれらの自然が守られたともいえるが、旧軍は多くの史跡を破壊した元凶でもある。門も塀も壊され、家臣坂は百年もの間放置されていた。

藩政期の本多家12代。その12人の当主のもとへ「直近の坂道を駆け上った」家臣の姿を思う当代。その時どきの心情にあらためて想いを馳せる。


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