金沢の坂道コラム

大乗寺坂が見つめる冨樫氏の復権 - 舘残翁と浅香年木

本多町から出羽町へ上る大乗寺坂。坂上の小立野丘陵に立って南東に目をやると、大乗寺山と倉ヶ岳が一望のもとにある。大乗寺山にはこの地から321年前(1697年=元禄10)に移転した曹洞宗の名刹・大乗寺(長坂町)がある。大乗寺を開山した冨樫氏の終焉の地とも伝わる倉ヶ岳がその背後に控えている。坂頭と二つの山。三つの地点はともに互いが見える位置にある。


右手に大乗寺山、倉ヶ岳を望む

右手に大乗寺山、倉ヶ岳を望む


勝者の歴史

舘残翁(たち・ざんおう、1867-1947)なる史家がいた。一向一揆に攻め滅ぼされた冨樫氏の復権を願い、生涯をその研究にささげた。“勝者の歴史”であるわが国の歴史をたどるとき、加賀前田家の治世以前の一向一揆、そのまた前の冨樫氏の時代にまでさかのぼることは至難の業だ。勝者は敗者の生きた証をことごとく消し去ってしまうからである。不明のものが多い冨樫氏の歴史にあえて挑んだ残翁の志から、この坂の持つ意味を考えてみたい。


1936年(昭和11)の舘残翁夫妻(『加賀大乗寺史』より)

1936年(昭和11)の舘残翁夫妻(『加賀大乗寺史』より)


大乗寺は、倉ヶ岳山系の北端・野田山の麓にあり、丘陵は別称して大乗寺山と呼ばれてきた。歴代加賀守護をつとめた冨樫氏の居館があった押野庄野市(ののいち・現野々市市)に近く、冨樫政親が一向一揆と戦って滅んだ高尾山(たこうやま)とは隣り合う地勢にある。残翁は大乗寺の研究についても冨樫氏と同じ比重の業績を残した。それは、1291年(正応4)に開山した大乗寺が冨樫氏の手によるものであり、残翁の母が冨樫氏の家臣につながる家系にあったという因縁からである。

因縁だけで片付けてしまっては正確さを欠く。残翁は江戸期から続く野々市村(当時)の豪農・豪商の長男として生まれた。幼い頃から才知に優れていたが、目立つことを嫌い、学業は尋常高等小学校で終え、独学で教養を高めようとする気鋭の人であった。野々市大火(1890=明治23)と昭和恐慌(1930=昭和5)で家業は倒産、金沢で借家住まいに入り、この頃から残翁を雅号に過去を振り切るように研究活動にのめりこんでゆく。

仁政を布く

残翁がいいたいのは、次の一点である。史誌を要約すると、~平安期の987年(永延1)冨樫忠頼が国から加賀に送られ、1335年(建武2)冨樫氏が一国の政治勢力の棟梁である守護大名になり、「文明の一揆」「長享の一揆」を経て1488年(長享2)政親が没するまでの502年間と、冨樫の治世を懐旧した一揆勢に再び迎えられ、1570年(元亀元)、当主泰俊を最後に越前金津城に倒れるまでの83年間の計585年間。この長きにわたって家名を保持できたのは冨樫氏が民心を得て仁政を布いたからにほかならない~。

この間には、藤原氏の院政、源氏-北条氏の鎌倉時代、後醍醐天皇が天皇親政を復活した建武の中興、足利尊氏の謀反と南北朝時代、応仁の乱に揺れた室町時代、さらには織田信長が台頭した安土時代と、六つの大変な時期をかぞえている。相次ぐ戦乱、親子兄弟の相克、これらを乗り越えたにもかかわらず、その史績は伝わること少なく、冨樫氏といえば「法敵仏敵」の汚名と「安宅関の勧進帳」あるのみ。残翁の嘆きは深く、これをバネにした生き方が何人をも寄せ付けない研究への没頭に変わっていく。

30年早かったら

これと真っ向から対立する意見を述べていたのが後の史家浅香年木(あさか・としき、1934-87)だった。冨樫氏が「その長い歴史のなかで、現代に“奉賛”されねばならないような仕事をしたという根拠は何一つ発見できない」(1972『石川史書刊行会会報』1)と断じ、一向一揆の復権の前には前田家と同じく冨樫氏の否定もやむを得ずとする立場を鮮明にしていた。それは勝者の歴史を覆すという観点からすれば、一方を立てるだけの矛盾とのそしりは免れ得ないことでもあった。

残翁の遺稿が大乗寺から見つかり『加賀大乗寺史』として刊行されたとき、浅香は「もしこの企てが30年早かったならばと、翁の心中を察して、ひとり涙した」と『冨樫氏と加賀一向一揆史料』の「解題」の中で書いている。終戦をはさむ30年の間に一向一揆に関する研究は著しく深化した。自らの研究に影響したであろう残翁の論点の一つ一つが「すべて、中世の加賀の歴史を考究するための基礎的な事実の解明に深くかかわりあっている」ことへの悔恨の思いからであった。

残翁と浅香、二人の意見が同時期に真正面からぶつかりあったとき、「冨樫」に対する見方がどう変わったであろうか。それはだれにもわからない。いえることは、浅香の残翁評をそのまま借りるなら「縦横無尽な、あくことを知らぬ貪欲な模索の足跡、関心の動き、執拗なまでの追究の軌跡が、なまのままの姿で、後学を刺激する」、このことの方が大事であるということなのだろう。

ただただ、たたずむ


石垣に沿う風情

石垣に沿う風情


斜度22度

斜度22度


大乗寺は押野庄に創建されて以降、金沢市木ノ新保、藩老本多家上屋敷(出羽町)、同下屋敷(本多町)、現在地と少なくとも4回、所を変えている。少なくとも、というのは押野庄にあった頃、兵火などで一時動向不明のときがあったからである。大乗寺坂はこの間の下屋敷時代(慶長-元禄の96年間)につくられたとみられる。本多家との縁ができ、寺は中興-全盛のときを迎える。


明治に入って丘の上の出羽町に歩兵第七連隊の練兵場ができると、寺の跡地に“置き去り”にされていた大乗寺坂は場内に取り込まれ、いったん姿を消す。戦後、練兵場が払い下げられた際、金沢市がこの坂を復活させた。石段とスロープが併用された歩行者専用で、本多の杜が木洩れ陽を演出している。石垣に沿って右に左に上り下りする坂筋を『サカロジー』国本昭二は「庭園に架かる八つ橋」に見立てている。戦後生まれの坂は、父祖の地に向かい人びとの思いを秘めてただただ、たたずんでいる。


木洩れ陽

木洩れ陽


(文中敬称略)

<参考資料>

  • 『冨樫氏と加賀一向一揆史料』舘残翁 石川史書刊行会 1973
  • 『加賀大乗寺史』舘残翁 石川史書刊行会 1971
  • 『百万石の光と影-新しい地域史の発想と構築』浅香年木 能登印刷出版部 1988

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