金沢の坂道コラム

坂をつなぐ坂 ― 欠原坂

「欠原町の坂」から勘太郎橋へと下りる欠原坂


地誌『小立野校下の歴史』(2001年刊)を独自の視点でまとめた元高校教諭、故園崎善一さんが遠慮がちに書いている。『欠原坂はそのまま欠原町で坂の呼称はない。しかしここでは敢えて欠原坂という名称を使用させていただいた』。校下の自然環境と文化について触れた章の「坂」の部。嫁坂亀坂など名だたる19の坂が紹介されている中で唯一、あまり知られていない坂である。園原さんが名前を付けてまでして取り上げたかった「がけはらざか」。一体どんな坂なのか。

ひと言断ったうえで、園崎さんはその位置を示している。『真行寺(旧二十人町、現石引2丁目)から勘太郎橋までの屈曲の多い急峻な坂道である』。勘太郎橋は小立野台地東南側の傾斜に沿う勘太郎川に架かる。これ以上の説明はないから園崎さんが「敢えて」取り上げた真意はわからない。とにかく行ってみることだ。新型コロナウイルス禍のさなかだが、「不急」はないにしても「不要」とも言えない。そんな理屈を付け、カメラを手に台地を上った。

最高斜度27°無名の坂

「旧欠原町」と刻まれた“歴史のまちしるべ標柱”をのぞくご婦人がいた。脇にある坂を上ってきたばかりの筆者が声をかけると、観光か散歩で通りかかったと思われるご婦人はチラと坂に目をやって「こんな怖いところ、下りられない」。あまりに急で身がすくんでしまうという。「こちらで十分」と言い残して彼女は標柱の前の道を新坂のほうへ立ち去った。こちらとは国本昭二さんがサカロジーで「起伏のある閑静な住宅街」と副題を付けた平均斜度2°の『欠原町の坂』である。


欠原坂と新坂の中間にある無名の坂


新坂へ下りる「欠原町の坂」


さて、標柱わきの坂。欠原町の坂とはほぼ直角に接する形で下りている。細い石段で、最高斜度は27°もあった。名前があれば「斜度No1の○○坂」となったかもしれないが、藩政期の絵図に家でぎっしり埋まった姿で描かれているわりには名無しである。標柱が建つ場所には一昨年まで菅原神社があった。赤い鳥居は町のシンボルだった。『悲しい時には40数段の石段をかけ上り、赤鳥居をくぐり、神さまに思いのたけを話したのでしょうか』と20年ほど前の地元婦人学級の文集にある。町の人には坂より神社のほうに愛着があったのかもしれない。今、家は坂の上と下に残るだけである。空き地となった坂の途中から笠舞~寺町台地の町並みが俯瞰される。


延宝金沢図に見る(中央下から右上へ)嫁坂、新坂、無名の坂、欠原坂


足もとに赤い鳥居


その少し上手、真行寺下に欠原坂はあった。無名の坂に並行して下りている。足もとに赤い鳥居が見える。菅原神社はここへ移転していた。鳥居の掲額に「欠原菅原」の文字がある。こちらは車も通るから最高斜度は12°。南へ下りるが、屈曲が多く先が見えない。勘太郎橋までの110ⅿ間に分岐が数ヵ所あり、旧の一本松町や揚地町につながっている。二十人坂に出る道もあれば行き止まりもある。

橋のたもとに住む山本理昭さん(75)=石引2丁目=に話を聞いた。引っ越ししてきた50年前、あたりに家は数軒しかなく、コンクリート張りになる前の勘太郎川には手づかみできるほどフナやドジョウがいた。ホタルもいた。町や坂道につながる便利さだけでなく、自然が豊かだった。坂について聞くと「雪の日はちょっとね」と本音が返ってきた。台地の子だった園崎さん(旧下百々女木町、現宝町生まれ)にも思い出がたくさんあったのだろう。


赤い鳥居の「欠原菅原」神社


欠原町は崖にできた町である。原っぱがいきなり欠けるから欠原。小立野台地より一段低い。藩政期、旧白山町の波着寺前から二十人坂の本道(旧道)を下りて右に曲がり、台地沿いに新坂、中坂、嫁坂を左につないで大乗寺坂に至る。町並みが片方だけの細長い片原町。もともとは笠舞村だったので、笠舞新坂町、笠舞がけ原、笠舞一本松などと呼ばれ、その一つ・がけ片原町が転じて欠原町になったようだと金澤古蹟志は伝えている。欠原町は人口増に伴い、一部を残して、中坂町、嫁坂町、裏石引町などに細分化される。


「上欠原町坂」


1871年(明治4)の戸籍編成で欠原町は上・中・下の3町に分けられる。86年(同19)から始まった陸軍の出羽町練兵場建設のため嫁坂以西の下欠原町は道路を含めて全家屋が撤去され、欠原町の坂も嫁坂までの約310mでストップする。戦後の1964年(昭和39)、住居表示の変更で3町は石引2丁目・本多町1丁目になり、伝統ある欠原の名は消える。

ところで、温知叢誌に「上欠原町坂」の名があり『上欠原町ヨリ揚地町ヘ下ル坂ヲ云ウ』とある。園崎さんのいう欠原坂と同じものだろう。著者の氏家栄太郎氏が町を歩き回って聞き出したものか、あるいは独自に名を付けたものか。いずれにせよ、明治~大正の金沢の様子を記録した同誌の存在を園崎さんが知らないはずはない。思うに、土地っ子の園崎さんとしては上欠原町のもとの名である欠原を「敢えて」使いたかった、欠原にある坂だから欠原坂でいい、そんな思いがあったのかもしれない。

犀川に向かってゆったりと下る崖は、多くの坂を生む。犀川低地に至るまでにはなお笠舞台地があり、生活道路としての坂ができるのは否応なしだ。一帯は「金沢の坂道」でも最も坂が“密”な地域と言っていいだろう。坂をつなぐ坂がある。密なわりには風通しがいい。5月の薫風が通り過ぎる。


中ほどから見上げる欠原坂


あわせて読みたい

金沢の坂道で打順を組んでみた。

金沢の坂道で打順を組んでみた。

金沢の坂道を野球チームになぞらえて打順を組んでみた。個人的には黄金期の西武にも匹敵するのではないかと感じている。

コラムを読む

嫁坂 その後 - 婿どの 板ばさみ

嫁坂 その後 - 婿どの 板ばさみ

坂を下りて嫁に行く―。嫁坂には島倉千代子の歌を想わせる感傷がある。坂の途中で立ち止まって考える。あの人はその後どのように生きたのだろう。幸せだったのだろうか。今回は“嫁坂物語”のその後について。

コラムを読む

大乗寺坂が見つめる冨樫氏の復権 - 舘残翁と浅香年木

大乗寺坂が見つめる冨樫氏の復権 - 舘残翁と浅香年木

坂道がときの政体と関わった珍しい坂がある。大乗寺が移転した跡に取り残された大乗寺坂。いったん消滅した坂が復活したのにはそれなりの意味がある。形成期の加賀の武士たちは、そして人びとはどう生きたのか―。

コラムを読む

晴れの日を祝う気持ちを石垣に込めて - 嫁坂

晴れの日を祝う気持ちを石垣に込めて - 嫁坂

「加賀藩初期、坂の上に住んでいた藩の重臣、篠原出羽守が、娘を本庄主馬へ嫁がせる時つけた坂なのでこの名がついた。」という嫁坂の由来に、温かい気持ちがこみ上げてくる。この坂に今も残る石垣は、石垣普請のエキスパートである父が娘に贈った祝福の石垣と言えよう。

コラムを読む