金沢の坂道コラム

嫁坂 その後 - 婿どの 板ばさみ

現在の嫁坂。下りる先に家並みが広がる

現在の嫁坂。下りる先に家並みが広がる


1991年(平成3)ごろ、修景工事前の嫁坂(提供:東洋設計)

1991年(平成3)ごろ、修景工事前の嫁坂(提供:東洋設計)


藩政初期、娘を嫁がせる父が婚礼のために付けたという嫁坂(石引4丁目-本多町)。現在のように石畳のメルヘンチックな装いになったのは、まもなく終わろうとする平成の初め1991年(平成3)のことだ。それ以前はコンクリートの石段で、昭和の中ごろまでは傍らに野イチゴが群生する山道で、「よめの坂」(寛文七年金沢図=1667)と呼ばれるまでは細い獣道だった…と遡っていったら、逆に、嫁いだ先の家はその後どうなったのだろうという思いに取りつかれた。


寛文七年金沢図(1667年)に描かれた嫁坂。そのころは「よめの坂」(中央)

寛文七年金沢図(1667年)に描かれた嫁坂。そのころは「よめの坂」(中央)


地誌に限界


本庄主馬がその家の主。1612-13年(慶長17-18)の士帳に1,800石とあり、大坂の冬・夏の陣に足軽頭として出陣、敵方の「首一つを獲る」(加能郷土辞彙)手柄を立て500石を加増されて2,300石となる。翌年の士帳には鉄砲頭と記されているが、この辺の前後関係ははっきりしない。「主馬の子孫が金沢にいないため」と金澤古蹟志に断りがあるように、地誌では「京へ去った」主馬のこれ以上の履歴検証は無理だったようだ。

金沢学院大の本多俊彦准教授(日本中・近世史)の追究で、主馬の「その後」は息を吹き返す。本多准教授が高岡法科大勤務時代に発表した「本多政重家臣団の基礎的考察―その家臣団構成について」(『高岡法科大学紀要』第20号、2009年)と「加賀藩における本多政重登用の再検討」(同第26号、2015年)、その史料である『上杉家御年譜』(米沢温故会、1988年)などをもとに“嫁坂の嫁”をもらった本庄主馬のあとを追う―。

米沢から加賀へ

後に加賀本多家の初代となる本多政重。将軍徳川秀忠付きの重臣本多正信の次男であり、大御所家康の側近本多正純の弟である。18歳のとき秀忠の乳母の子と諍いになりこれを斬って出奔、以後、宇喜田秀家、福島正則ら主君を7度替える「渡り奉公人」となる。1602年(慶長7)よりいったん加賀藩2代藩主前田利長に仕えたあと、米沢上杉家執政直江兼続の婿養子となる。米沢で7年間を過ごし、11年(同16)、再び前田家へ仕えることになる。上杉家家臣だった本庄主馬は、政重の再仕に前後して同僚らとともに米沢から金沢へ移る。政重と行をともにしたとみられている。

上杉家重臣の三男である主馬もまた、直江兼続の養子になったことがある。そのような人物がなぜ、この時期に米沢から相次いで移住したのか。本多准教授は論文で「兼続による上杉家の人材及び禄高減らしという政策的意図を想定しうる」とし、上杉家の所領が関ヶ原合戦のあと120万石から30万石になった経済的事情を可能性として挙げている。

加賀藩士となった主馬の働きは前述の地誌にあるとおりである。この働きを見込んで娘の婿どのに、と考えるのが大坂の陣のあと1万7,000石を禄した前田家の宿老篠原一孝(石川県史資料「諸士系譜」)。嫁坂はこのとき造られるから、普通に考えて、その時期は大坂落城の慶長20年(1615)5月から一孝が55歳で死去する元和2年(1616)7月までの15ヵ月間ということになる。この間に縁談-坂道の造成-挙式があった。一孝の娘は坂を下り、主馬殿町(現菊川1・2丁目)までの1.4kmの花嫁道中を経て幸せの人となる。
 


主馬屋敷があった犀川川上方面を望む

主馬屋敷があった犀川川上方面を望む


「進退窮まって」離藩

世は泰平の世となる。戦功により加増された主馬だが、時流の変化が重くのしかかってくる。差配する鉄砲組は「平生の勤めもなく、年中2・3度宛(ずつ)人形を撃つ」だけの休業状態となり、藩主の代替わりもあって組は規模縮小の憂き目に。仕事と給料を減らされた持筒足軽は次々に暇乞いしていく。この頃には3,000石となっていた組頭の主馬も、いたたまれなくなり禄を返上して京都へ去る(金澤古蹟志など)。

これに対し、本多准教授の論文は正鵠を射るものが多い。「上杉景勝からたびたび米沢への帰参を求められていた」主馬は、もとの殿様の執拗な求めに悩み「進退窮まって加賀藩を致仕(官職を辞すること)するに至る」。1637年(寛永14)のことである。落ち着き先は「江戸品川」辺り。「剃髪して如雲と改め」と、出家して如雲と名乗った主馬の姿が描かれる(上杉家御年譜「諸士略系譜」)。うわさをもとにしたと思われる地誌の片の付けようとはだいぶ違う。

それほどまでに主馬を追い込んだものは何か。親や兄のいる米沢への郷愁がないわけではない。そこへ景勝の異様なまでのご執心である。いったんは他家へ仕官した主馬を呼び戻して重臣本庄家の家督に据えようとする。家督を一族の者に相続させたあとも主馬に帰参を求めつづける。もとより主馬には前田家への恩顧がある。「不可解な執心ぶり」に驚く本多准教授だが、「想定の内」との見方も示されている。景勝にはもともと主馬を手放す気などなく、前田家には一時的に預けただけという可能性への言及である。不明な点が多いなか、情の通う話ではある。

気丈に立ち向かう?

主馬はこのあと福島へ移り、病を得て米沢へ帰る。息子二人は主馬に代わって上杉家に仕え、子孫は幕末まで勤める。1643年(寛永20)、主馬死去(享年不明)。夫人の実家篠原家本家は甥の代で断絶するが、分家が幕末まで残る。

加賀藩の政重登用について「幕府からの押し付け」説を採るこれまでの研究に「むしろ対幕府交渉のため主体的・積極的に登用したのではないか」と一石を投じた本多准教授。これに倣い、物事を多面的にとらえるという観点で、嫁坂に藩政初期の不安定な時代様相を重ね合わせてみた。時代の趨勢から、史料にはいっさい登場しない嫁坂の主・主馬夫人の動静だが、いまはただ、難局に気丈に立ち向かったであろうその姿を想像するのみである。


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