金沢の坂道コラム

<出張編> 「学校坂道」うみなり坂

うみなり坂

うみなり坂


「西海(さいかい)一の眺めです」。志賀町(旧富来町)の元小学校長西方政章さん(73)=中山=はこう言って柔和な顔をほころばせた。風光明媚な能登にあって、一地区に限定して自慢するのは控えめな人柄からきているのだろう。響きのいい名前にひかれて訪れた「うみなり坂」。西方さんはその名づけ親だ。

湾曲した海岸。集落を抜け、海抜45mの頂へ上る。緩いカーブが一つあるだけの、畑地の約400m。上ってくる児童と「おはよう」と挨拶を交わす。正面に真っ青な海。跳ね返るような元気な声が返ってくる。背にした山からはウグイスがうるさいほどにさえずり出す。さわやかでのどかな朝の光景。西方さんの回想は「小ぢんまりとした美しい画(え)のよう」(加能作次郎『世の中へ』)な海辺の一こまを想わせる。

廃校

「舟は岸を離れ、入江を出て、だんだん村から遠ざかった。(中略)顧みると、海岸からすぐ高い崖の様になった急な傾斜面の凹(へこ)みに、周囲を木立に包まれた百戸足らずの家が、まるで小石を掴(つか)んで置いた様にかたまって居た」(『世の中へ』)。西海を出奔する作次郎の目に焼きついた1898年(明治31)頃の村のたたずまいである。朝、西方さんが眺めた光景を海側からに置き換えると、ほぼこうなる。

その斜面に一筋の舗装路ができた。1987年(昭和62)、台地の上に建てられた町立西海小学校。麓にあった校舎が手狭になったため移転新築され、舗装路はその通学路になった。丘の上の白い校舎、畑地を貫く一直線の坂道は、漁を生業(なりわい)とする村のたたずまいを一変させた。新しい学校と長い坂に、人びとは期待の眼差しを送った。


校地㊧までたどり着いて、ほっとひと息ーうみなり坂

校地㊧までたどり着いて、ほっとひと息ーうみなり坂


海原台に建つ旧西海小

海原台に建つ旧西海小


だが、学校は18年後の2005年(平成17)、統合のため廃校となる。少子化に、おそらくは積弊の過疎化も加わったのであろう。予想を超える児童数の減少だった。55年(昭和30)ごろは300人を超えていた児童が最後の年は47人になっていた。子供たちの声が消え、台地は元の静寂に戻った。校舎は荒れ、うみなり坂は取り残されたように斜面にはりついている。


しおさい坂

「うみなり」の名は97年(平成9)に赴任した西方校長が呼びかけて誕生した。秋の運動会。地域の人たちが集まるなかで、校長は思いを話した。「新しい地にふさわしい名を」。公募の形をとり、教職員とも話し合った。

通学のための坂はもう一本ある。西側の旧校舎から山道を通り、学校角のT字路でうみなり坂と合流する。こちらのほうは「しおさい坂」。校舎の建つ「海原台」と合わせ、二つの坂と台地の名前がこのとき決まった。全校集会「うみなりタイム」、学級活動「しおさいタイム」、そして台地の名は卒業生でもある作次郎作詞の校歌〽海原遠く西海の…からとった。


しおさい坂

しおさい坂


「うみなり(海鳴り)はこわいイメージ、しおさい(潮騒)はやさしいイメージ。そのどちらもがここにはあるんです」と西方さん。季節風で大波が立つ冬の海、ゆったり抱え込むような増穂浦(ますほがうら)。少し曇った日には南に白山、東に立山が姿を見せる。秋から冬にかけての湾岸の夕映えは絶景という。地区に残る風無(かざなし)、風戸(ふと)の地名は風土に根ざしている。

鎮魂の海

終戦直前、この海に爆音がとどろいた。停泊中の日本軍の輸送船3隻が追尾してきた米潜水艦の魚雷を受けて沈没した。24人の乗組員の遺体が上がった。「大戦中は一発の被弾もなかったという石川県だが、海上とはいえ敵弾を受けたのはこの西海だけであった」。当時は西海台地と呼んでいた海原台に避難した国民学校時代の卒業生の一人が、創立100周年記念誌(「思い出の記」)に書いている。

〽この坂道のぼったら ぼくの学校があります…。84年(昭和59)春、NHKテレビ「みんなのうた」で流れた「学校坂道」(別掲)の歌い出しである。西海小と様子がよく似ていることで広まり、第2校歌ともいわれた。閉校記念誌(「卒業生からのメッセージ」)には「磯の香りが大好きでした。海に行き交う舟を見つけては父の舟かな、小舟は祖父のかもしれない…」とあった。なにもかも押し流して、廃校から13年目の夏である。

「学校坂道」(作詞・作曲:西口ようこ)

この坂道のぼったら ぼくの学校があります
ジャングルジムにのぼれば海が
まっさおに見えます
青空に抱かれた ぼくの自慢の学校
この坂道をぼくは毎朝
風をきってかけます

この坂道おりるのは 空が赤く燃える頃
丘を渡る澄んだ空気 うしろに長い影
ともだちの笑顔も 夕焼けに染まります
この坂道をぼくはあしたも
口笛とのぼります

この坂道をぼくはあしたも
口笛とのぼります

T字路にある標識

T字路にある標識


<参考資料>


  • 『加能作次郎作品集 世の中へ/乳の匂い』荒川洋治編 講談社 2007
  • 『うなばら』富来町立西海小学校閉校記念事業実行委員会 富来町 2005
  • 『螢光百年』西海小学校創立百周年記念事業実行委員会 1975

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