金沢の坂道コラム

<出張編> 団子坂 ~網膜に残らなかった風景

18年前の団子坂下

18年前の団子坂下。車がひっきりなしに通り、シャッターをきる間もないほどだった


「だんござか」。心地よく響く坂の名がなんとなく耳に残っていた。サラリーマンだった2000年(平成12)秋、出張で上京した折に休暇をくっつけて半日ほどその辺を歩き回った。こんどは2度目。18年ぶりの団子坂は人と車が行き交う相変わらずの喧噪を見せていた。

幼児期、ここでわたしは一時期を過ごした。誕生からしばらくいた下谷区(現台東区)から引っ越した。その後2歳半までのまったく記憶にない頃のことに加え、戦時中の、東京大空襲が迫っていた時とあって、予期した通りやってきた大空襲で戸籍類などはすべて焼け、証拠と言えるものは何もない。だが、過ごしたことは事実である。その時見た風景が網膜に残らなかっただけの話だ。記憶にはないが、覚えている―そんなことがあってもいいだろう。

手描きの地図

団子坂は文京区千駄木2丁目と3丁目の間にある。もう一つ耳に残っている響きに「さかしたちょう」がある。そこに住んでいたからか、知り合いがいたからかははっきりしないが、ともかく坂の下には違いないだろう。『ぶんきょうの町名由来』(文京区教育委員会、1996)によると、旧町名の駒込坂下町・通称団子坂下は昭和40年頃の住居表示改正で千駄木2丁目と3丁目に分かれている。

18年前の上京に際し、母に頼んで住んでいたのはどの辺りか、簡単な地図を描いてもらった。それをもとに歩いたのだが、不忍通り沿いの3丁目の方とすると小石川の台地を背にしたことになるし、通りをはさんだ2丁目の方とすると谷中墓地を背にすることになる。今となってはどうでもいいことだが、不忍通りに何本もの小路がつながっていた母の手描きの地図からすると崖下にくねくねした「へび道」が走る後者の方が合っているような気がする。都電20番線のカーブも描かれていたが、地図は紛失した。


団子坂

団子坂


グラマンの機銃掃射


東京大空襲は1945年(昭和20)3月10日未明、下町に焼夷弾の雨が降り注いで始まった。死者8万8,000人、罹災者100万人を超す無差別大量殺人の予兆を嗅ぎ取ったのかわが家はそれより前、父と祖父を残し、わたしと母、祖母を出身地の金沢へ疎開させていた。東京空襲はこの前後半年にもわたって続いた。

後年、父からは、町内の防空壕が爆弾の直撃を受け、50人もが一度に亡くなって小学校の体育館で遺体の不寝番をした話、母からは、逃げ遅れ、押し入れにわたしを抱えて飛び込んで助かった話を聞いた。祖父からは「(お前も)あと10年もしたら兵隊に行かんならんな」と言われた。あと10年で生き別れなければならないことを意味していた。祖母からは、日中の公園でグラマン(艦上戦闘機)の機銃掃射を受けたことを聞いた。年寄りと孫を標的にする戦争とはいったい何なのだろう。

小説が描く原風景

坂は幕末から明治の終わり頃まで菊人形の見世物でにぎわった。通りの幅は今の4分の1ほどの5mもなかったようである。「谷中と千駄木が谷で出逢ふと、一番低い所に小川が流れてゐる。此小川を沿ふて、町を左りへ切れるとすぐ野に出る」。『三四郎』に漱石はこう描写している。美禰子の口から「ストレイ・シープ(迷子)」が発せられる場面である。江戸川乱歩『D坂の殺人事件』では、拡張されたこの坂に「(事件の舞台となった)古本屋の右へ時計屋、菓子屋と並び、左へ足袋屋、蕎麦屋と並んでいる」。さらに煙草屋、アイスクリーム屋がありカフェがある。

「小川」の藍染川は谷田川ともいい、まさに谷と谷の間の水田地帯を流れるかつての様子が見えてくる。坂の傍らか下かに団子屋があったからとか、急な悪路のため雨降りに転んだりすると泥まみれの団子になったところから名付けられたという。後者の方がふさわしいような気がするが、諸説あり、としておこう。


三崎坂 夕焼けだんだん 富士見坂


川が埋め立てられて都電の走る電車道になり、今や地図には東京メトロ千代田線と目に見えないものが代わりに書き込まれるようになった不忍通り。その藍染川に向かって「道沿いのさらに小さな川が勢いよく流れ落ちていた」と坂沿いの店番の人が話すのが団子坂と向き合う三崎坂(台東区)だ。「みさき」と呼ばず「さんざき」と読む。駒込、田端、谷中の三つの高台に因む。


三崎坂

三崎坂


夕焼けだんだん

夕焼けだんだん


ここから北寄りに、JR日暮里駅から谷中銀座に向かう石段坂の夕焼けだんだん(荒川区)がある。西に下っているので夕焼けがきれいである。さらに諏方通りを抜けて西日暮里の富士見坂(同)に出る。傍らの説明板の本文末尾に「都心にいくつかある富士見坂のうち、最近まで地上から富士山が見える坂でした」と過去形の添え書きがある。別名を含めて富士見坂と呼ばれる坂が都内に24ヵ所ある中で、「よく見える唯一の坂」(原征男・坂学会会長)がこの坂だった。


富士見坂

富士見坂


<参考資料>


  • 『定本漱石全集第五巻』夏目金之助 岩波書店 2017
  • 『D坂の殺人事件』江戸川乱歩 春陽堂書店 2015
  • 『東京大空襲』早乙女勝元 岩波書店 1971

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