金沢の坂道コラム

戦国の軍道坂は対岸にあった

坂上近くの軍道坂

坂上近くの軍道坂


金沢市内から県道芝原・石引町線を行くと、右にキゴ山(546m)、左に戸室山(548m)が現れる。向かい合う二つの山は、その先にある医王山(標高939m)の堡塁のようである。キゴ山からは富山県の砺波平野が一望でき、最近まで「警護山」の字が充てられて、戦国武将佐久間盛政が越中の一向一揆に備えて砦を築いたという由来が伝わる。麓に軍道坂がある。「警護」に関連する坂名と思われる。

坂は山裾の湯谷原町からキゴ山・戸室山登山の入口までつづく延長約500m、幅6-7m。標識に勾配12%(斜度6°50′)とある。その名のとおりかつて盛政の軍勢が通った道ではあるようなのだが、それだけではない、坂があった場所を含めて有為転変、歴史の積み重ねがあって今日に至っている。山が開かれ、僧が通い、戦があり、警備の兵が闊歩し、石を伐り出す人足が詰めた土地柄なのである。


右にキゴ山、左に戸室山(中間地点より)

右にキゴ山、左に戸室山(中間地点より)


昭和期、軍事演習で移設


軍道坂はかつて脇を流れる谷川の対岸にあった。現在の軍道坂は山を削って新たにつくられた。証言者は湯谷原町で生まれ育った新谷幸三さん(71)。キゴ山一帯に広がるスキー場やふれあい研修センターの元の施設である市営放牧場に42年にわたって勤めた。明治生まれの父から聞いた話では、下から見て坂は谷川の右にあり、幅は1mほど。ヒノキやスギが混在する雑木林の脇を通っていた。


対岸の谷川沿いにかつての軍道坂があった

対岸の谷川沿いにかつての軍道坂があった


坂が川を越えて左に移されたのは1930年(昭和5)、旧陸軍第九師団が山砲の演習のため対岸に新たに道を付けたことに始まる。兵や兵器を運び上げ、山頂に据えた山砲から敵陣に想定した白兀(しらはげ)、黒瀧の峰に砲弾をぶっ放した。その轟は「加越連山が崩壊せんばかり」だったと『加賀河北の史的文化と地的景観』(池上鋼他郎、橋本確文堂、32年)にある。坂は幅3mほどの「九尺道路」(『医王山』浅川村教育会、32年)となる。若き日の新谷さんはここをオート三輪で通勤した。


畜産奨励のための放牧場だったが、一時は100頭を超えた預託牛も年々減り代わって牧草地に青少年向けの施設がつくられていく。坂は2倍の現在の広さになる。対岸の旧軍道坂は廃れ、裾野の耕地が区画整理されたこともあっていまや面影を偲ぶよすがもない。上り口付近に土留めの石垣が名残をとどめるのみである。

戸室石を伐り出す

軍道坂はいつごろからそう呼ばれるようになったのだろう。盛政が湯涌谷の加賀一向一揆を掃討、余燼くすぶる越中一向一揆を警戒してキゴ山に砦を築いたのは1580年(天正8)以降のことだ。この年、盛政は金沢御堂を攻略、金沢城につくり替えてその最初の城主に納まるが、在城はわずか2年半(『城下町金沢学術研究1 』2010年)。83年(同11)、叔父柴田勝家とともに羽柴秀吉と賤ケ岳(滋賀県長浜市)に戦って敗れ、29歳で刑死する。この間に「ぐんどう」と呼ばれたかどうかはわからないものの、軍道はこの時期に付けられたとみていいだろう。

後年、前田利家・利長の時代になって戸室石を搬出するようになり、その記録にようやく「ぐんどう」の名が現れる。10年ほど経ってからだから、盛政以後の人たちが石を運び下ろす坂に名前がないと不都合、ということで戦いに明け暮れた世のことを思い出しそう呼んだのかもしれない。藩末に著された亀の尾の記には「ケイゴ山」の項に「故ある地名」として「ぐんどう」が挙げられている。


キゴ山中腹の石切り丁場

キゴ山中腹の石切り丁場


なぜケイゴ山なのか。亀の尾の記は「警護」の文字を使わず、その由来を秀吉の朝鮮出兵「文禄の役」(1592‐3年)に求めている。ある博識の士からの話として、捕虜となった朝鮮人がキゴ山を見て故郷の「鶏篭山」に似ていたことから「けいろ山」と名付けた。けいろが訛ってケイゴになった。懐かしさのあまり泣いた。その場所に「泣岩」がある。検討に値する話ではないか、というわけである。片仮名で表記したあたりに意味深長なるものを感じる。ほかに稽古(けいこ)山という呼び方もあり、なかなか一筋縄ではいかない。


武人の功罪

歴史に「もしも」は許されない。にしても、本能寺の変(1582年=天正10)がなければ賤ケ岳の戦いもないし盛政の死もなかった。少なくとも盛政の金沢を根城とした治政はもう少しつづいたはずである。「鬼柴田」同様、盛政も「鬼玄蕃」(官途・通称は玄蕃允)と猛将ぶりが恐れられた。日尾(ひお)村・見定(けんじょう)村(現日尾町・見定町)の男衆の大半を百間堀修復工事の名目で徴用、堀の上からだまし討ちした(2019年11月10日付『こぶらん坂』)事件も伝わり、その非情に戦慄する。

一方で、能登の石動山をめぐる荒山合戦では、利家の求めに応じて救援、勝利を収めたあとは「勢い余って利家をも討つのではないか」との懸念(『長家家譜』江戸期)をよそにさっさと引き揚げる。賤ケ岳では秀吉軍の追撃を受けて敗走する盛政に近くにいた利家は手を差し伸べていないのである(『金沢市史 通史編1』2004年)。経緯はともかく、盛政の史的性格の一端がうかがえる逸話ではある。城下町の礎となる「尾山八町」をつくりこれを取り囲む「惣構」を設けたとする論考もある。歴史は後世の人によって書き換えられることを常とする。裏切り、下克上の戦国時代にあって、盛政はどう生きたのか、いま一度考えてみるのも無駄ではない。


  軍道坂 関連年表


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