金沢の坂道コラム

こぶらん坂 ― 山中のボブスレーコース

踏み跡がわずかに残る往道を行く。こぶらん坂はこのずっと先

踏み跡がわずかに残る往道を行く。こぶらん坂はこのずっと先


医王山系の小高い山々が連なり、その合間合間にいまは町となった村が点在する。上山(うえやま)町はその一つ。県道10号線を山並みに向かって進み、湯涌温泉から左にそれて市道209号線に入るとすぐにある。山中に隣村の北袋(町)や折谷(町)へ抜ける狭い道があって、人びとはそれを往道と呼ぶ。往来でも街道でもない“天下の王道”の意味を込めている。こぶらん坂は折谷と結ぶ途中にある。

ヌルヌルした粘土層

加越能地名の会の創始者で元金沢大学技官の中村健二氏(1933-2018年)が著書『医王山物語』にこぶらん坂を紹介している。延長は約120m、道幅約1.5mの窪んで緩くカーブした急坂で、なによりヌルヌルした粘土層なのがこの坂を特別なものにした。雪解けの早春、手製の雪橇(ゆきそり)を背中に担いだ一団が現れる。近隣の村からやって来た子どもらで、斜面の頂上までハァハァいいながら上り橇と橇を縄で結わえる。「きょうは橇が7台もつながれている。先頭の橇に年長組の男の子が乗る。(中略)『出発』の号令一発、橇は雪上(ジェット)コースターの上を走った」。いまならさしずめボブスレーといったところか。ろくに遊び場もなく、子どもの多かった時代。山あいにこだまする歓声が聞こえてくるようである。

こぶらん坂は「腓脛坂」と書く。腓(こむら・こぶら・ヒ)はふくらはぎ。ここがひきつるとこむら返りになる。脛(すね・ケイ)は腓を含む下肢。「上りはまだしも、在所(村)へ向かっての下り道では太ももの筋肉が張り踝(くるぶし)がガクガク震えていまにも足首が折れはしまいかと気が気ではなかった」(医王山物語)。子どもらの遊び場になった坂はもともと行き交う大人たちには日々の生活道であり、時に飛猿のように疾走する連絡道である。遊び興じる子どもらを尻目に慎重に足を運ぶ大人の姿も見えてくる。

またの名をかまかち坂

もう一つ名がある。かまかち坂である。鎌鼬は読んで字の如く、あのカマイタチ。「突如としてスパッと鋭利な刃物で斬り付けたような傷が現れ、痛みや出血もない裂傷を負う」「この辺りではカマカチと呼んで恐れられていた」(同)。昔から妖怪の仕業と伝承されており、一般的には「旋風(つむじかぜ)などのために大気中に真空の部分が生じ、人体がそれに触れて気圧の差から皮膚が裂ける」とされる。時折りではあったが、この坂でカマイタチに出会う人があった。近年には病院で6針も縫った人がいるという。

こぶらん坂といい、かまかち坂といい、体の一部を坂名にする発想、加えて坂には転ぶ・滑るなど恐ろしい一面もあるぞ、という教訓めいた命名の仕方に脱帽する。医王山物語は書いている。「子どもたちの集団が上ってきた。ガヤガヤとふざけながら歩いていたが、滑る坂道にさしかかるとみな真面目になった」。道の脇に垂れているヤマツツジの小枝に手を添えながら「気イ付け気イ付けカマカチの物の怪につかまらぬよう必死であった」。

口をつぐんだ山の民

一向一揆から加賀藩政へ移行する時期、湯涌谷は一揆の拠点の一つであった。倶利伽羅峠で敗走した平家の落人が拓いたといわれる上山は、一揆の武闘隊とされ、前田利家をして「湯涌谷の土人メ」と言わしめるほど恨みを買った。利家の前に尾山御坊に入った佐久間盛政が日尾(ひお)村・見定(けんじょう)村(現日尾町・見定町)の男衆の大半を堀修復工事の名目で徴用、堀の上からだまし討ちした事件もあり、先例に怯えおののく湯涌谷の家々では「証拠となる品々をすべて破棄して従順を表し、以後、一揆のことを一切口噤した」(『山の民物語』)と伝わる。

地域内では昔から和紙漉きが盛んで、このため反故(ほご)紙の買い集めが昭和初期まで頻繁に繰り返されていたことも史資料の枯渇を招いた。所蔵古文書がほとんどないなかで浅野川、森下川、犀川の上流域、さらには富山県の小矢部川上流域・刀利谷(とうりだん)までその歴史・伝承を集めて文献にまとめた原動力はひとえに中村氏の小名(こな)収集にかけた情熱にある。訪問し、聞き取った地名を地図に書き込むことで地域の来し方を浮かび上がらせた。


中村氏が描いた周辺図(『上山町土地便覧』より)

中村氏が描いた周辺図(『上山町土地便覧』より)


遠い日の大事な宝物


中村氏の長女で上山町に住む岩坂留美子さん(65)にこぶらん坂まで案内してもらった。町のはずれから入る往道はかすかに人の踏み跡があるだけで、道の体をなしていない。倒木や竹、伸びた木の枝が道をふさいでいる。祖父が炭焼きに通ったという山道から往道山(標高285m)の稜線に向かうことにする。往道の上に1990年(平成2)に敷設された林道王道線(北袋町-小菱池町4.6km)に車を乗り入れる。林道とこぶらん坂が最接近する地点まで行き、そこから山林に入り坂を探す算段だ。


夕どき。上山町のたたずまい

夕どき。上山町のたたずまい


林道に入ってすぐ「見上峠まで4km」の標識がある。途中で車を止め、コナラの林に分け入ること5度、6度。Gパンに長靴姿の岩坂さんは小枝を払い、藪を分け、どんどん先へ行く。「最近はクマが出るようなので怖い」と言っていた最前の言葉がウソのようだ。革靴のわたしは追いつけない。元の場所で待つことにするが、こんどはなかなか戻ってこない。大声で名前を呼ぶも応答なし。心細く不安がピークに達しようとするころにひょっこり姿を現す。そんなことが日暮れ近くまで1時間半ほどもつづいた。


結局、こぶらん坂は見つからなかった。橇遊びを「父の時代のこと」という岩坂さんだが、父と一緒にホタルを追った思い出がある。ワラビやゼンマイを採り、ササユリの球根を食べ、ツツジの花の蜜を吸った。遠い日の大事な宝物だ。背丈より高い藪のなかへ分け入る姿は、昨夏亡くなった父の面影を探し求めているようでもあった。岩坂さんの衣服は草木の種やワラ、泥にまみれた。それでも中止しようとしない岩坂さんだったが、落日には逆らえなかった。

林道と山の下の市道に挟まれた形の往道は間道になった。そのころからだろうか、往道は人の通らない道になった。いまは草がぼうぼうである。倒木は手つかずのまま放置されている。わずか30年で道は道でなくなった。歴史の道はこのまま検証されることもなく消えてしまうのだろうか。


「ありました!」こぶらん坂


こぶらん坂。粘土層で滑りやすかった坂が落ち葉で埋まる

こぶらん坂。粘土層で滑りやすかった坂が落ち葉で埋まる


後日、岩坂さんから「ありました!」と連絡があった。この辺の山に詳しい長老格の人と再び山に入り、草木に埋もれた窪地のこぶらん坂を見つけたという。無理を承知で三たびの探索をお願いし、撮影したのが上の写真である。溝は腐葉土が堆積して浅くなり、幅も狭まっていた。なにより青竹が屹立して通行を阻んでいる。「昔の面影はない」と岩坂さんがつぶやいた。

<参考資料>

『上山町土地便覧 ―鶏肋の譜・榲桲(まるめろ) 合冊版』中村健二 1989
『林道開設記念誌 王道』金沢市林道王道線開設促進会 1991
『山の民物語 ―医王山西南麓の史・資料集―』中村健二 北國新聞社 1994
『医王山物語 ―山麓のなりわいと自然―』中村健二 北國新聞社出版局2005


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