改訂:坂道出典年表 ― 見えてきた金沢の形成過程
坂に名を付けたのは人である。どうしてそのような名になったかを知ることで時代背景が見えてくる。坂名が明記された地誌や史書があれば、また、坂名が示されていなくても関連する事柄があれば、その文書が発行された年代をつないで表にする。そこから時の流れが見えてくる―。そう考えて作成した「坂道出典年表」(2016.4.27)だった。9ヵ月を過ぎ、年表の効用に感じ入っている。金沢という町の発展の歴史が見えてきたのである。
尾山御坊が原型
金沢の町は、戦国の世、一向一揆の拠点だった尾山御坊(金沢御堂)とその門前につくられた寺内町を原型としている。攻め入った信長配下の佐久間盛政が御坊の跡に金沢城(尾山城)を築き、そこから形成された近世城下町が今日の金沢の基盤となっている。城下町金沢は、寛文・延宝期(1661-81)の20年間にほぼ完成し、絵図に示される町割りなど街路網や用水路は裏道に至るまで現状とそれほど変わらない。
一向一揆以前の金沢はどうだったか。骨格となる小立野・寺町の両台地と卯辰山丘陵の間に集落が点在し、小立野を例にとると「往古は小立野山の尾崎三つあり。(中略)一の尾は馬坂なり。二の尾は八坂なり。三の尾は城地なり」(金澤古蹟志)といったふうに、台地が切れ落ちた扇状地の中に町があった。
江戸は城を取り囲むようにらせん状に町を拡大させたが、金沢は城を起点に放射線状に広がりを見せていく。
関連文書も取り入れ
坂道出典年表でトップに出てくる児安坂は、児安ヶ丘という丘があり、そこに児安神社があるなら坂もあったであろうと神社史の年代に合わせて掲出したもので、文書に坂名が著されていたわけではない。坂名が明示されている点で、次にくる瓶割坂が最初である。
坂の名が人のなせる業である以上、「人為」を嗅ぎ取るうえで出典準拠は欠かせない。ここはひとつ、文献に坂名が明示された坂を優先した表にすべきか。とも考えたが、それでは(トランプ米大統領ではないが)出典が明らかな坂とそうでない坂とを「分断」してしまう恐れがある。東京のように坂の多いところならいざ知らず金沢ほどの坂の数では一枚の表にする意味がなくなる。
出典準拠の精神は尊重しつつも、関連文書から坂名の発祥が推し測れるものは取り入れ、年表に織り込む。そうすることで少しでも歴史に近づきたい―。前回からの流れは、だから変えていない。
改訂作業は今後も
年表に入っていない坂も多くある。人づてに聞いたものも含め、史資料からざっと拾っただけで、天狗坂、御前坂、御小屋坂、飴屋坂、石坂、野田往還、上欠原坂、線香坂、姥(ばば)坂、剱坂、母衣町坂、野坂、八幡坂、たて坂、牛首坂、新坂、中坂、あらま坂、笠舞坂、大滝坂、九十階段、安藤坂、小便坂、弁慶坂、幽霊坂、大林区の坂、本覚坂…。都市計画でつくられた新桜坂、旭坂のようなものもある(順不同)。
これらがすべて網羅できれば―。風土や人びとの暮らしまでもがほの見えてくるのではないか。妄想である。誇大にすぎる、と言われるのがオチだ。ただ、そんな不遜な思いを抱かせるほどの年表づくりであることは付記しておきたい。
なお、藩政初期は利家入城の1583年(天正11)、明治初期は明治維新の1868年(明治元)、戦後は終戦の1945年(昭和20)に「から」マーク「~」を付けた。従ってこれらの範囲内では順序を考慮していない。改訂作業は今後もつづく。
