幻と化すか「善光寺」 ― 坂から学ぶ地名考事始め
「幻の『善光寺』を追う」(2月)のタイトルでその由来を書き始め、番外編の「坂は人と人を繋ぐ」(6月)まで、都合7回にわたって本欄に掲載した善光寺坂。連載を通じて感じたことを加越能地名の会の機関紙「加越能の地名」No46に書いた。
『加越能の地名』No.46 (加越能地名の会2015.11.1発行) 寄稿
金沢市の土地を形成する台地の一つに小立野台がある。辰巳用水が走るこの河岸段丘は、由緒ある坂道が多いことでも知られる。その数24カ所(『さきうら』(崎浦公民館編、2002)。古くから市街地と犀川上流の村々を結んだ善光寺坂(小立野3丁目-三口新町周辺)はその一つである。付近に善光寺という寺があったことに由来する(坂道標柱)という。では、寺はいつ、どこにあったのか。素朴な疑問からわたしの地名探検は始まった。

秋色濃い善光寺坂

念仏碑がある善光寺坂下

地蔵盆の日の善光寺坂地蔵尊(8月24日写す)
ホームページ「金沢の坂道」のコラムがわたしの探検報告の場だ。ことし前半、7回にわたって公開した。うち2回がなんとか核心に迫ったといえる部分なのだが、そのタイトルは「寺は坂の下にあった」と「『寺』はなかった!」。あったのかなかったのか。これでは分からない。宙ぶらりんのまま連載は一旦休止せざるを得なくなった。そこで見えてきたのが伝承地名の奥の深さと危うさだ。
加越能地名の会の前代表中村健二氏が「加越能の地名」No.7(1999)に論考「菊水と善光寺坂」を寄せている。金沢市菊水町。藩政期は石川郡後谷(USIRO‐DAN)村。地域での発音を忠実に表現するため、前代表は伝承発音をローマ字(ヘボン式)で表記する。内川ダムの建設で昭和45年(1970)に全戸移転したが、村の水没は免れた。論考発表の10年前から始まった金沢大学日本海域研究所の「金沢市の郊外における伝承地名」調査で前代表は出身者から「善光寺が建っていたと伝承される善光寺谷の位置」を教わる。調査報告書(1991)で前代表は「廃村を余儀なくされた平家の落人の子孫も(中略)善光寺谷を残し、(中略)離村まで琵琶や三味線をこよなく愛したと聞く」と書く。

冬支度を急ぐ菊水の里。左下は林道後谷線

内川上流、秋深い菊水町

広域基幹林道犀鶴線(熊走方面)の落石(5月23日写す)
「一方、目を市街地の小立野台地へと転ずると」とつづき、県道野田・上野町線に善光寺坂があり、善光寺坂下、善光寺下の小名(『さきうら』では涌波新村の小字として掲載)に到達する。善光寺谷との関連性から前代表は上野八幡神社の先々代宮司に問う。先々代宮司は「この坂は善光寺詣での下り口で、当時は参詣人の行き来で賑わった」と答え、関連については「藩政期初頭に内川上流から移ったと推論している」と言及する。前代表はここで「往古坂下に寺が建っていたことに由来する」との判断に至る。寺はあった!―幻の善光寺を追っていたわたしは小躍りした。
だが、待てよ。一見「一件落着」のようだが、なお疑問は残る。①善光寺があったとされる善光寺谷とはどんなところなのだろう。果たして実在したのか②その善光寺がなぜ20kmも離れた三口新町辺りへ移らなければならなかったのか③藩政期初頭に移ったのなら手がかりがなぜこうも見事なまでにないのか―。①については探索中である。②③については先々代宮司のいうように推論の域を出得ない。
その矢先、町の歴史愛好家の秘蔵していた手記が手に入った。坂上に鎮座する善光寺坂地蔵尊こそが坂名の由来であるとする説で、寺の存在には終始一貫して触れていない。寺を探し求めた末にたどり着いた結論であると聞かされ、連載は一旦休止のやむなきに至った。その後も情報収集をつづけるなかで、こんどは先々代宮司から聞いた話として「善光寺詣での人たちが通った」と長野善光寺への参詣人が後谷-倉谷を抜け信州への道をたどったことから名づけられた、と信じ込む人が現れた。寺はもともとなかったことになる。訊く人によって受け取り方が異なる伝承の危うさ。伝承地名を読み解くことの難しさ―。
善光寺という寺が坂の下にあったのか、地蔵からきた名なのか。はたまた長野善光寺につづく道だったからなのか。「ZENKÕJI‐DAN」が持つ響きは奥深さと危うさを伝えて独特である。
(数字を洋数字に変換するなど一部修正して転載しました)