「寺」はなかった! - 善光寺坂由来その5
「坂」より先に「地蔵」があった
善光寺坂地蔵尊(小立野3丁目)の由緒を調べていた地元の郷土史愛好家、故野上正治氏の著作のなかに、善光寺坂の名の由来とみられていた善光寺はもともと存在せず、地蔵こそが坂の名のもとになっていた―とする下書き原稿がみつかった。坂標(坂道標柱)をはじめとする通説に真っ向から挑戦する、なおかつ、史実を踏まえた論調になっているのが特徴だ。
天正3年(1575)春先の早朝、突然に…で野上説は始まる。越前から越中・刀利を通り小立野台地に至る山越え(白山連峰の尾根伝い)の湯涌道路(街道)に合掌体の大きな石の地蔵さんが置かれていた。いままでに見たこともない大きさで、村の人たちのだれも知らない間の出来事だった。だれがなんのために、こんな辺ぴ(鄙)なところに…。
そのころの小立野台地は高台のため水はなく、雑木林とススキ類の草地が広がって人の動きはまばらだった。わずかに坂下の大清水(おおしょうず)から亀坂(小立野3丁目-笠舞2丁目)までの約500m間と、鶴間坂(小立野5丁目-旭町)の一角だけは清水が湧き出ていて人の集まりがあった。
「長野善光寺地蔵尊」が最初の呼び名
地蔵が置かれた場所は現在の善光寺坂地蔵堂の向かいの旧上野村で、いまはほとんど道路になっている。刀利を通り湯涌方面から運ばれたらしい、とのことで、村びとがこの方面から普段往来している人たちと話し合ったところ①長野善光寺が願主からの求めに応じ、運搬の便がよく石材の豊富な越前で地蔵を制作し、願主の要望する場所に安置した②長野善光寺は従来から地蔵を全国各地に配置していて、これはその一つ―ということになった。
人びとは地蔵を「長野善光寺地蔵尊」と呼ぶようになる
独学の郷土史愛好家
―ことわっておかねばならない。野上説は「いい伝え」をもとにしているが、だれから聞いたかを含めて根拠となる史資料はいっさい示していない。三年前に83歳で他界したが、ご家族によると、生業の農業以外の時間はすべて資料調べに充て、いまも一部屋いっぱいに資料が山積みされているという。公的には崎浦地区町会連合会副会長を務めた。いわば独学の士。こつこつと訊きまわっていたようで、野上説にまったく触れられていない加賀善光寺については「いろいろ調べたが、ついに分からなかった」と肩を落とす野上さんの姿を思い出す人も何人かいた―。

野上さんの著作資料(一部)
佐久間盛政進攻で「善光寺地蔵尊」に
野上説をつづけよう。地蔵は薄青色の凝灰岩(越前石)で、背面に「天正二年」の文字が彫られていた。衣の前裾に符合が刻まれていたので調べるとそれは長野善光寺の寺紋である「立葵」のようだった。天正8年(1580)織田信長配下の佐久間盛政が湯涌方面の一向一揆を撃破して西下、金沢御堂を攻撃するため地蔵の前を通りかかった。村びとたちは巻き添えを食ってはたいへん、と地蔵を寝かせ菰をかけて守る。この春、御堂は陥落。佐久間勢の干渉を恐れた村びとは相談のうえ、地蔵の名を長野とは関わりがないかのような「善光寺地蔵尊」に改める。
天正14年(1586)金沢城の北東9km(道路で13km)の戸室山に角閃石安山岩(戸室石)が埋まっているのがみつかり、前田家はこの石で城固めにかかる。一日1,000人を繰り出して石を運ぶために浅野川の下田上橋まで道(途中の坂道を「野坂」といった)を開く。平地は幅三間(一間は約1.8m)坂道は五間の石曳き道路の誕生である。
坂道を開いて「善光寺坂地蔵尊」
その後、一国一城令で途中の番城が廃城となり、越中・湯涌方面の先端防衛線は小立野台地まで後退する。このため前田家は文禄4年(1595)上野村に先端防衛を兼ねて練兵場・小立野馬場を設置する。ただ、馬の飼料となる秣(まぐさ)はたくさんあっても水がなく、崖下にある大清水を使うことで解消しようと地蔵の横から大清水口まで坂道を開く。急な崖路のため、村では人馬の安全と加護を祈願する。いつしか善光寺地蔵尊は「善光寺坂地蔵尊」になり、坂道は「善光寺坂」と呼ばれるようになる。

大清水から坂上方向を望む

坂は大清水方向(左)へ下りていた

440歳か。地蔵さんは3度名を変えた
時勢の移り変わりで名を変えた地蔵は、長野善光寺が6年間、善光寺が14年間、そして善光寺坂が今日に至るまでの420年間。善光寺坂地蔵尊として迎えたことしは生誕440年なのである。世情が安定する宝永4年(1707)には長野善光寺の本堂再建に併せて開眼供養が盛大に営まれている。このとき発表された正式な尊名「六道能化地蔵尊」は浸透せず、善光寺坂地蔵尊の名が定着する。
一途な姿
それはともかく、野上説は金沢市の『地蔵尊民俗調査報告書』(1997)や、これを反映したものであろう坂標や崎浦公民館編『さきうら』(2002)、さらには前回紹介した民間研究の中村健二説『寺は坂下にあった』(1999)など「付近に善光寺という寺があった」ことを前提にしている由来説とは一線を画し、敢然と寺の存在を排除している。それは「いろいろ調べたけど分からなかった」からにほかならず、こつこつ訊きまわったいい伝えのみを頼りに伝承しようとした一郷土史愛好家の一途な姿が浮かび上がる。
地蔵の背中に刻まれた「天正二年」説は市の調査報告書にある記述「天正十年」と食い違う(わたしが確かめた限りでは何も書かれていなかった)。また、立葵の寺紋という掘り跡は見た目ハート型で、三角形の立葵とはかけ離れている。符合にしてはくだけすぎなのだ。そもそもこの原稿は何のための下書きなのか。研究は何を目的にしていたのか。いろいろ聞きたかったよ、野上さん!

地蔵尊の前裾に刻まれたハート型の紋様