寺は坂の下にあった - 善光寺坂由来その4
善光寺坂(小立野3丁目-笠舞1丁目)の名のもととなった善光寺の所在を推定する新たな資料があった。寺は坂の下にあり、藩政期初頭に内川(内川地区)から移ってきた―とするもので、存在を示す文献がまったくないことから「幻の寺」とされている加賀・善光寺に一筋の光が見えてきた。
資料は、加越能地名の会発行の『加越能の地名』No7(1999.8.1刊)。当時の同会代表で元金沢大学理学部地学教室技官の中村健二氏が「菊水と善光寺坂」と題して論考を発表している。
「小名」に残る手がかり
論考によると、善光寺坂周辺に善光寺坂下・善光寺下の「小名(こな)」があり(『さきうら』崎浦公民館2002=筆者注)、これが「往古、坂下に寺が建っていたことに由来する」という。小名とは「大字」「小字」よりもっと微細な地名で、中村氏が名付けた。「古来からの先民は、日々の生業の至便さもあって、集落領域内の各地に特有の呼び名を付けていた」といい、小名を登録された行政区名の字名とは区別している。そのうえで「こうした小名群は、地域の文化や生活様式の変化、あるいは、たえず変化してきた『ことば』とともに『ゆれ』ながら地域の歴史を刻んできた」と、小名が生活・文化に根ざした文化財遺産であることを強調、その記録・保存の重要性を訴えている(『加越能の地名』No6「小名論-消えゆく微細地名-」1999.4.1刊)。
さらに中村氏はこれを裏付ける証言として「この坂は善光寺詣での下り口で、当時は参詣人の行き来で賑わった」という坂の上、上野八幡神社宮司の大井武雄氏(先々代・故人)の言葉を紹介している。これより先、中村氏は内川出身の古老から善光寺が建っていたと伝えられる旧後谷集落の善光寺谷の位置を確認しており、このことを尋ねると、大井氏は「(寺は)藩政期初頭に内川上流から移ったと推論している」と答えたという。
内川・後谷(菊水町)から移る
後谷(石川郡内川村後谷)は昭和29年(1954)の金沢市への編入に際して名称を菊水町に改めている。養老年間(717-723)に開村したとの説や平家の落人の定着説もあるが、「中世の末に富樫氏が滅亡(一向一揆)した際に、その残党が住みついたのが起源、とすることが妥当」(『内川の郷土史』村史発刊委員会1971)とされている山間の地である。かつての後谷について中村氏は「近郷の古老の述懐」として「戦前までの村の生活風習は極めて特異であった」とし、その様子を「夕方の帰宅が周辺の山の民たちに比べて非常に早く、着流しに替えた夕食後は庭先に出て三味線や琴、尺八などに興じる優雅な面がみられ、村人の会話の流れが非常に流暢であった。また、日暮れて帰宅したあと早々と藁(わら)布団に潜り込む生活であった」と記している。
優雅な暮らし、豊かな村
皇国地誌に明治初年の菊水の村勢が描かれている。戸数56戸、社2社。人数男175口(人)、女157口、計332口。もっぱら農業を専業としたが、兼業で炭焼き17戸、日稼ぎ7戸、川師3戸、古道具商1戸があった。この古道具商一軒の記録が後谷の優雅な側面を如実に物語っている。「内川源流の三輪山から二又川の谷一つ隔てた倉谷(倉谷町)に居を構えたといわれる平家の落武者の末裔にも、後谷の人々に類似した所作があった」と論考はつづく。
これだけの地に菊水寺跡、慶林寺跡という寺の存在を示す名が残り、さらに善光寺が建っていたという善光寺谷があった。加えて神社の存在を示す「二社」の記録。同じ時期に存在したとはいえないまでも、330人余の人口規模からして豊かな村が想像できる。
てんでに呼び名
「景色と水だけはどこにも負けん」。いまは山を下りた長坂に住む中西一則(79)和子(77)夫妻の懐旧の言葉である。兼業で炭焼きをしていたが、村にプロパン(ガス)が入ってきて廃れた。そのうちダム(内川ダム)がきて山を下りざるを得なくなった。善光寺谷については「知らない。初めて聞いた」という。ただ、周囲が“谷だらけ”の村ではてんでに分かりやすいように谷に呼び名を付けていたといい、「あったのかもしれない」という。「便利さから領域内の各地に特有の呼び名を付けていた」という中村氏の記述はこんな風習を含めてのことだろう。
これ以上の話は中村氏が療養中のため聞けなかった。上野八幡神社の当代、北山隆宮司からは「内川からの移転説は口伝として聞いているが、具体的な資料はない」との答えがあった。
200年前に史資料焼滅
そんななか、23日、菊水町でことしで21年目になるという元住人のボランティアによる草刈りが行われるというので出かけた。菊水郷友会(宮崎明会長、会員42人)の人たちに作業が終わるのを待って話を聞いた。善光寺谷の所在について知る人はなかった。「200年ほど前に大火(文政8年=1825)があり、旧家の史資料がほとんど焼滅した」となかの一人。武家の血をひくことを示す鎧兜も焼滅したという話に史実を伝えることの難しさを感じた。
そういえば、先祖は富樫氏ではなく平家だという点で元住人の意見は一致していた。それを裏付ける伝説はいくつもあり「間違いない」という人もいた。郷土史研究と住人意識のギャップがそこにあった。
後谷から城下まで6里(24km)という。このような地にあった善光寺がなぜ山を下って笠舞台地の笠舞1丁目~三口新町辺りへ来なければならなかったのか。また、藩政期初頭に参詣人で賑わった寺がいつ、どのようにして忽然と消えてしまったのか―。「幻の寺」解明につながるかにみえた一筋の光明は、謎をいっそう深めたようでもある。