幻の「善光寺」を追う-善光寺坂由来
小立野3丁目から笠舞1丁目へ下りる善光寺坂。坂標(坂道標柱)には、昔この付近に善光寺と呼ばれる寺があったことに由来する、とある。ところが、その善光寺がいつ、どこにあったのか、となると、答えられる人はまずいない。郷土資料にあたっても坂標以上の説明はない。ましてや長野の善光寺との関わりに言及したものは皆無といっていい。なぜなのか。参勤交代の加賀藩前田家も通った北国街道長野。北陸新幹線の開通で長野がグンと近づくいま、幻の加賀・善光寺を追った。
地蔵は語る
寺はあったのか、についてまず触れる。
坂の上に坂標と向かい合って地蔵堂がある。祀られているのは善光寺坂地蔵と呼ばれる立ち姿の石像で、足下の礎石に「六道能化(ろくどうのうけ)地蔵菩薩」と彫られている。
広辞苑に、六道は「一切の衆生が業によって、おもむき住む六つの迷界。即ち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」、能化は「一切の衆生を教化する者。即ち仏」とある。六道について民に諭す仏さま、といったところか。さらに「為法界□(判読不能)霊造立之」とあり、法界に「仏道に縁なき衆生」との意味があることから、迷える人びとを救うために造った、と読める。(素人解釈につき蒙御免)
六道の指導教化が地蔵の使命だそうだから、正統派の、ごく普通の地蔵といえる。だが、その横に造立時期を示したとみられる「宝永四年(1707)亥 十月四日」の文字があって、俄然、地蔵は善光寺と結びつくこととなる。
―と、ここまでは、地蔵をお守りする地蔵講中の人たちに写真を見せてもらってわかったことである。昭和54年(1979)に建てられたお堂に13年前、車が飛び込み、修理のため床を外したところ地蔵は地表の礎石の上に立っていた。礎石にこれらの文字が刻まれており、写真はそのとき撮影された。
善光寺仏の身代わりだった
皇極天皇元年(642)創建の古刹、長野の善光寺は、江戸時代までにたび重なる火災でほとんどの伽藍を焼失。このため寺僧らが本尊の分身仏を背負って全国を行脚、集めた浄財で本堂を再建した。その年が宝永4年。加賀信州二つの善光寺はここでつながった。徳川5代将軍綱吉のころである。
数年前、「牛に引かれて」といってはご無礼かもしれないが、地蔵講中の人たちが本山(善光寺では本山-末寺の関係はなく、従ってこういういい方はしない。便宜上、使わせていただく)へお参りした際にこのことを知った。地蔵の造立と本山の再建は同じ年だった。そして思った。「ああ、うちのお地蔵さまは本山まで行けない人たちが、ご本尊をはるかに偲んで建てた身代わり地蔵だったんだ」。
食い違う地蔵の民俗調査報告
お堂の内部に「造立三百年記念」を控え寄進した人びとの名前を書き込んだ扁額が掛かり、掲げた時を示す「平成十年(1998)」の文字がある。明治に改築した際に掛けられた縁起状の扁額には「宝永の久しき年より…」とある。いずれも地蔵が宝永年間のものであることを物語っている。
この点について、平成9年(1997)に刊行された金沢市の地蔵尊民俗調査報告書(調査年:平成3-7年)は造立時期について「地蔵の背面に天正10年(1582)の銘があるという」との伝えを載せている。さらにこれを確かめることは「不可能」と書いている。天正10年といえば、本能寺の変が起きて時代は信長から秀吉に替わろうとしている時。宝永4年より125年も前である。
確かめることは不可能なのか。わたしは地蔵講中の許可を得てお堂に入った。地蔵の背面に板壁があって20㎝ほどの隙間がある。回り込むことはできないが、覗くことはできる。背面は荒削りというか、ざらざらしている。ところどころくぼみがあるものの、文字らしいものは見当たらない。
像にも額にも、天正のテの字もない。調査は最新のものと思うが、この食い違いはどこからきたのだろう。
像の高さについて調査は「総高165㎝」としている。巻尺で測ってみた。足の部分は板の台座に隠れているが、一部扉になっており開けて測ったところ175㎝前後あった。像は高さ25㎝前後の礎石の上に立っている。地元崎浦公民館編の『さきうら』(2002)にある「ご本尊は身の丈7尺(2m以上)。お堂ではなく地面に立っている」との記述が正鵠を射ている。
ともあれ、民衆との結びつきのもと、加賀の善光寺が善光寺信仰の拠点として坂の上に鎮座ましましたのはまちがいないと思うのである。
新善光寺(能登・真脇)の存在感
いつ、どこにあったのか―へ話を進めよう。
結論から言うと、始まりは石川県鳳珠郡能登町真脇の新善光寺が創設された南北朝時代の延元年間(1336-1340)で、おしまいは加賀の一向一揆が成った室町時代の長享2年(1488)ごろ。この間の約150年が、幻の善光寺が創建から廃絶に至った期間として有力視される。いまから670年前ということになる。どこにあったかはわからないが、強いて挙げれば上野八幡神社(小立野2丁目)周辺が穏当なところか。
新善光寺は、善光寺信仰が盛んだったころに宗派を改めて設立された。縁起によると、桓武天皇の代、平安時代初期に草庵を結んだのを始まりとし、県内では最古の部類に入る。善光寺一光三尊仏が本尊で、越前で焼かれたという立ち葵紋(善光寺紋)の瓦が現存する。第74代の高田光雄(こうゆう)住職によると、先に開けたこともあって加賀へはたびたび出向いた言い伝えがあり、おそらく後発の寺との交流のためではなかったかという。県内で善光寺を名乗るのはここだけである。守護富樫氏を倒した一揆勢も、守護畠山氏が目を光らす能登までは手が回らなかった。加賀の善光寺は滅び、能登の新善光寺は残った。
一向一揆で廃絶か
一向一揆が善光寺を廃絶に追い込んだ、とする直接的な史料はない。加能郷土辞彙は「僧侶と民衆からなる大集団が政教混同の政府を組織して国内を統治した」とし、領土(本願寺領)については「自ら手を下して掠奪(略奪)したものはなかった」とする。一方で、金澤市史社寺編は「一向宗の布教以来(中略)白山の末社末寺等皆滅ぶ」とし、『さきうら』は一揆を指導する寺に室町幕府の奉行が「押領行為の停止」を求めたとの史実を書く。一時期、「百姓の持ちたる国」を現出させた一揆勢の、征服者としての一面だろう。善光寺が覇権の犠牲にならなかったという保証はないのである。
長野の善光寺が平成4年(1992)に調べたところでは、善光寺仏などを有する寺は全国に443ヵ寺あり、善光寺を正式な寺名とする寺院は119ヵ寺に上った。加賀の善光寺が推定150年間のうち何年存続したかはわからない。善光寺史料館によると、この期間は全国的な善光寺信仰の盛時であり、かなりの期間存続したとみてよさそうだ。新善光寺との交流から一向一揆の勃発まで、フル稼働していた寺の様子が想像できないか。
かなりの期間となると、立地場所が当然詮索されることとなる。それは珠姫の葬儀-鎮魂(天徳院)の場に小立野が選ばれたのはなぜか、とおなじ命題として残る。
小立野の変貌
この坂の役割について、金澤古蹟史は「上野八幡の邊(辺)より山里へ通ふ」とし、温知叢誌も「之(これ)ヲ降レハ犀川上流各山村ヘ通スル」として坂上の上野村の東北・上野新村に上野八幡宮が鎮座していることを強調している。ともに神社を起点としているかのような記述である。神社が現在地に遷座したのは享保16年(1731)のこと。地蔵はその少し前に建てられたことになる。上野新村には大正に入って金沢大学工学部の前身金沢高等工業学校が開校する。それだけのスペースがあったということだ。わが田に水を引くと、神社辺りを立地場所とする見方が浮かび上がってくる。
かつて森林原野だった小立野台は、天徳院が建って急速に開ける。それ以前にも金沢御堂(尾山御坊)の創建と金沢城の築城で「先人の生活の跡、古墳、氏寺、遺跡などが破壊されたと推定」(ブログ「サイエンスと歴史散歩」)されている。
中世の一時期、寺があり、坂を上り下りする人びととともした祈りの輝きがあった。時は流れ、寺は開発の波の彼方にかき消えた。
<2015年はご開帳の年>
善光寺 4月5日(日)-5月31日(日)
新善光寺 5月10日(日)