地蔵縁起状の解説文見つかる―善光寺坂由来その2

ケヤキ板に刻された地蔵縁起状
善光寺存在説を補強
善光寺坂の上に鎮座する善光寺坂地蔵。お堂に掛かる扁額の一枚に地蔵の由来などを記した縁起状があり、これを解読することが幻の寺・善光寺に近づく第一歩と思っていた。くずし字が多いためなんとなく敬遠していた縁起状だったが、折りから、その内容について説明した解説文の原本が見つかり、寺の存在説がより一層補強されることとなった。
解説文の原本は堂内に保管されていた。筆者は地蔵講世話人だった故石橋孝作氏。平成15年に「善光寺坂地蔵尊の由来」と題してA4判2枚にわたり逸話とともにまとめられていた。縁起状はケヤキ板に刻され、地蔵の銘である「標文」と呼ばれる部分の文字のすべてが解読されていた。脇に添えられたのが達筆の解説文。わたしの生半可な古文書解読力では歯が立たず、金沢市立玉川図書館近世史料館の手をわずらわした。
「寶永の久しき年より二百年」
まず縁起状の全文を記す。(□は判読不能)
(標文)
『六道能化地蔵菩薩
為法界萬霊造立之
宝永四年亥十月二十四日
小立野講中』(ここまで金箔塗り)
(解説文)
『ことひ此御堂改築せんと土工を起されしに當時
造立の標文を堀得られたり寶永の久しき年より
算ふは二百年になんなんとして此地に垂迹して
衆生済度を尽し給ふこそ尊□礼この由を
記して□と奉額乃施主近藤栄太郎氏の望□
によりて
美しき恵ミをたれて霜の石
拓(または松)鶯
明治三十八年(1905)十一月改築の日拝書』

縁起状の扁額
標文の「為法界萬霊」について石橋氏は「すべての世界とすべての霊」であるとし、全体を「即ち、全世界の生きとし生けるもの、すべての現世死後を問わず、迷いから救い導いてくれるありがたい地蔵菩薩を造った」と訳している。
解説部分の「ことひ」は異日(昔)または殊日(特別の日)と判断され、衆生を済度するために菩薩が仮の身を現し(垂迹の意味)、すでに200年の長き日が流れた(当時)ことへの感謝の気持ちをつづっている。筆者はわからないが、小立野講中の近藤氏の名を入れていることから、当時の世話人で、地蔵の名と造立の日を以前から知っていたか、あるいはその時、つまり改築の際に知ったものか、いずれにしても造詣の深い人であることはまちがいない。
長野善光寺しのび開眼供養
長野の善光寺史料館によると、本堂が再建され落慶法要が営まれたのは宝永4年(1707)8月15日。あとを追うように2ヵ月後の10月24日、「本山」をしのび地蔵の開眼供養が営まれたことになる。宝永4年は「赤穂義士討ち入りの5年後。富士山が中腹で噴火して江戸に大量の火山灰を降らせ、宝永山が生まれた年でもある」との余話も載せている。
地蔵は青戸室石で造られており、石橋氏は「雨露風雪にさらされた汚れや染みが皆無であるのは、最初から堂内に安置されていたものと思われる」としている。さらに「これほど大きく立派な地蔵尊やお堂は珍しいとせねばなるまい」とし、犀川に向かって下りた坂の先にかつて火葬場や極楽橋と呼ばれる石橋があったことから「善光寺の存在は満更、根も葉もない架空のことでもなさそうな気もする」と書いている。

広い地蔵堂の内部
胸突き八丁
お堂の位置する旧上野町(現小立野3丁目)は山側に向かって中ほどで道が二手に分かれ、左は旧湯涌街道で右は善光寺坂。戦前は湯涌温泉や犀川上流の村落へ行くにはこの道しかなかった。解説はいう。「昔は善光寺坂はもっと急坂(現在は斜度3-4)で道幅も狭かった(同5m)。とくに地蔵堂付近で一段と勾配が急となり、荷車を引く人や馬車馬にはまさに胸突き八丁というところであった」。
お堂脇にあった茶店は一服する人でにぎわい、夏場に提供されたスイカの切り売りは飛ぶように売れた。50年ほど前、近所に嫁にきた人のセピア色の回想だ。メーンストリートとメーンスロープの分岐点で繰り広げられたのどかな光景は、いま、駈けあがる(一方通行)クルマのエンジン音にかき消されている。

お堂前の善光寺坂