まとめにかえて ― 善光寺坂由来その6

脇から見上げる。善光寺坂のかさ上げの歴史が垣間見える(2015.2.22撮影)
これまでの経緯
『幻の「善光寺」を追う』(2月28日)と大上段に振りかぶって書き始めて5ヵ月がたった。そこに同じ名前を寺号にする寺があったり、あるいはかつてあった場合は「地名よりその寺のほうが先である」という通説(『加越能の地名』No15「金沢寺」について:後藤朗氏2002.4)に基づいてのスタートだった。
善光寺坂の上に「善光寺坂地蔵尊」が鎮座する。お堂に由来を記した縁起状の扁額が掛かりこれを解読した解説書がみつかった。『地蔵縁起状の解説文みつかる』(3月6日)と第2弾を打った。長野善光寺のご開帳に併せた能登・真脇の新善光寺のご開帳を取材、第3弾『新善光寺でご開帳』(5月15日)と、加賀・能登さらには長野との交流ロマンに想いを馳せた。
『寺は坂の下にあった』(5月29日)と推定所在が一気に具体化したのは『加越能の地名』No7(1999.8)中村健二加越能地名の会代表(当時)の論考「菊水と善光寺坂」の一文からだった。ところが、これを追うように地元の郷土史愛好家、故野上正治氏が書き残した資料がみつかり、『「寺」はなかった!』(6月6日)と反転する。坂(地名)より先に地蔵があったのであり、寺などもともとなかったとする野上説。「地蔵」を「寺」に置き換えてもいいが、それで済む話ではない。善光寺という固有の寺を探し求めてきた旅はここで一旦停止せざるを得なくなった。
気になることども
立ち止まりついでに、気になったことを二、三。
その一つは村史と住人意識とのギャップだ。内川の上流に位置する菊水町は村史『内川の郷土史』によると、長享二年(1488)の一向一揆に敗れた守護富樫氏の残党が「山奥のこの地に住みついたのがその起源、とすることが妥当」としている。養老年間(717-723)に開村したとの説や、寿永二年(1183)の倶利伽羅の合戦による平家の落人の定着説もあるなかで下された一つの結論なのだが、住人の多くは平家の落人説をとっている。村史が独り歩きしていないか。先祖伝来の鎧兜や史資料が焼滅したであろう文政8年(1825)、さらには明治19年(1886)の大火が悔やまれる。
二つ目は、金沢市の地蔵尊民俗調査報告書(調査年:平成3-7年度)のずさんさだ。縁起状(扁額)の解説部分に「宝永(四年)の久しき年より…」と地蔵の造立時期をうかがわせる記述があるのにこれを無視していい伝えの「天正十年」説をとっている。江戸と戦国、125年の時代差がある。さらに地蔵の背中にそれが刻されているといいながら「確かめることは不可能」と、背面を覗けばわかることなのに確かめていない。筆者が見た限り何も書かれていなかった。地蔵の身の丈も正確でない。これらの事柄が既成事実化することを懼(おそ)れるものである。
三つ目。宝永4年(1707)の開眼供養はそれよりかなり前に造られた地蔵の“生まれ変わり”の儀式だったとしても、そのとき発表された「六道能化地蔵菩薩」の正式名はついに定着することはなかった。それまでの、そしていまもつづく「善光寺坂地蔵尊」の名は権威になびかず少々のことでは揺るがない庶民のしたたかさを写している。