「坂学」を考える ― 坂学会<俵アーカイヴ>を中心に
わたしなりのアプローチ
坂の語源は「境(さかい)」という。台地と平地の境が「坂」になまった説からきているが、境が坂になるまでには相当の時間がかかった。バリアーを形成するもう一つの要素である「崖(がけ)」との問題があるからだ。
「坂はすなわち平地に生じた波瀾(はらん)である」(『日和下駄』1915)という永井荷風は、崖についても「崖と坂との佶倔(きっくつ=詰屈=かたまっているさま)なる風景をもって、大(おおい)に山の手の誇(ほこり)とするのである」と書く。海や河岸の風景を専有する下町に対して、山の手の崖もいい、とフォローする。
高低差の甚だしい地勢には必ず崖と坂があった。境目であることを示す崖は、人びとが活動範囲を広げ、境目を行き来することによって急な崖となだらかな坂に区分されていく。崖は歩きやすいように削られ、場合によっては切り通されトラバース(斜め横断)してならされていく。そして坂になる。坂は道であるという道理につながる。
残った崖は、風景には欠かせないものではあるが、人びとには不要のものだ。そこから、崖に名がなく坂に名が付くさらなる区分も行われる。人の用に立つのが坂であり、便宜上、名前が付けられていく。坂名の誕生である。
イザナギ・イザナミ伝説に登場する「黄泉比良坂(よもつひらさか)」(古事記)から、道としての坂に名が付くのは近世にまで待たねばならない。江戸時代、17世紀半ばに坂名が発生し、坂の歴史は始まる。「坂学」はこのため「人の用」と「坂名」を二大要素とする。わが国坂学研究の先駆け・横関英一氏(1900-1976)は「坂の研究とはすなわち坂名の研究である」と説く。

平均斜度22度。犀川緑地から望む御参詣坂は崖をしのばせる。寺町台にはこうした坂が多い
実例としての学説
坂についての研究と提言は、地勢や地質といった分野からはやや距離を置いて、人との関わりから主に歴史と結びついて行われてきた。多くの学説があるなかで、ここでは坂学会が公開している東京地縁社会史研究所理事長俵元昭氏(1929~)の著作集「俵アーカイヴ」を中心にまとめてみたい。始まったばかりの坂学の流れをつかむため、世代順に横関、俵両氏と、坂学会副会長瀧山幸伸氏(1955~)の意見を紹介する。
横関氏は日本の地図考証家。江戸、東京の名のある坂道について研究し『江戸の坂 東京の坂』を著した。著書には坂の定義に関する記述が多い。坂とは「(人が)上下する道路」であり「人間の経済活動に必要な道路の斜面でなければならない」とする。だから「坂には、かならず道路が伴う」。
とり上げるのは「その坂が名前を持っている場合であって、無名の坂、またはまだその坂名がわかっていないものについては、それに触れることはしない」。また「単に神社、仏閣、私邸へ登るために設けられた坂も、一般に知られた名前のあるものを除いては、坂として取り扱わない」。あくまでも人との関わりを第一とする。
俵氏は、坂研究が高まりをみせた時代の切絵図研究家として知られる。坂名の歴史的検討から切り込み「坂には、時代の状況を反映したと思われる名称があり、地名としての解釈とは別個の、歴史的あるいは社会的意義を示す存在であることは容易に想像できる」という。
たまたま、江戸の地図の歴史を探る必要から、中世以前の江戸周辺の地名を調べた際、氏はそこには坂の名が一つもないことに気づく。近世初頭にもまったく見られない。わが国有数の坂名密集地帯である東京に、坂名が出現し始めるのは17世紀半ば、上野の車坂(地誌『色音論-あづまめぐり』1643=寛永20)が最初である。ここで氏は「江戸の町はその84%以上を占めた武家屋敷や寺院寺社に正式の町名がなかった」から、地点を示す坂名は「行政上の町名の不備を、自然発生的に補完する働きをもっていた」点にたどりつく。
江戸の町には面積にして10%そこそこの町家にしか町名はなかった。やむを得ず住民サイドで知恵を絞って編み出した俚俗の地名(通称・俗称。横関氏によると「単純明快、即興的で要領よく、理屈がなくてしゃれっ気にあふれている」)、とくに坂名で補完せざるを得なかった。坂名からは用事を抱えて右往左往する庶民の姿が見えてくる。
近世に入ってからのことなら、数多い地誌、絵図からその出現をチェックできるのではないか―。こうして取り組んだのが「坂出典年表」だった。「地名の研究」から始まった坂学に「時代別の分類」が加わった。俵氏は言う。「坂学はいまその試みに入った段階です。(中略)坂名の伝説などと絡み合わせて考えると案外、史実を確定できる材料になるかもしれません」。(1976)
瀧山氏は、ライフワークとする「街並学」との関係から、坂の定義について「坂は景観を認識する一概念であり、自然が人の手で影響を受けた傾斜のある道路景観」と規定する。従って「自然だけの傾斜は坂とは呼ばない。けものみちや山の裾野は坂としては扱わない」。付加価値としての「景観」に言及する。
副会長を務める坂学会はことし発足11年目。HPに「成人となるころには日本学術会議に認定される学会になりたいと日々活動している」と記す。
坂の持つ精神性
坂の持つ精神性にも触れておかなくてはならない。これについてはエッセイストであり数学者である国本昭二氏(1927-2005)が『サカロジー-金沢の坂』(1995-2000)に多くの名言を残している。
「日本人にとっての坂は生の世界と死の世界をつなぐブラックボックスなのだ」(あめや坂)。まさに「黄泉比良坂」の古事記の世界だ。町名変更で坂の上と下が同じ町名になってしまったことには「坂とは上と下のちがった小宇宙をつなぐマジックボックスだったはずだ」(鶯坂)と違和感を示す。
「そこを抜けるとまばゆいばかりに展望が開ける。この、瞬時に景観を変えるのが坂の持つ魔性だ」(紺屋坂)と神秘性に触れ、斜面でしか得られない輪郭の風景に「斜面は棲(す)む人の心を癒す不思議な魔性を持っている」(大乗寺坂)と説く。観音坂女坂に住んだ筆者ならではの目線だ。
「坂は、近くを遠くに見せる『裏っ返しの遠近法』で騙し絵を描く」(天神坂)。小立野から鈴見方面を眺めてみる。鈴見を遠くに見せていた犯人は、崖に沿って曲がりくねる坂だった。片町から、犀川をはさんで野町神明宮の大ケヤキが見上げられる、そんな風景が創造できたら片町と神明宮は一体化する。「坂は街の風景のジョイントでもある」(瓶割坂)。
「坂の上からの景観は、風土への愛着を生む」(桜坂)。だれもが感じるところだろう。車に生活空間を奪われてしまった藩政時代からつづく「人道」には、せめて車道路の半分くらいの建設費をかけて、坂の下に立っただけで上ってみたくなるような石段を造ろう、と訴える。「坂を上らなくなった民族は滅亡する」(二十人坂)。

振り返るごとに「街が級数的に小さくなる」観音坂女坂。振り仰ぐと旧国本邸が遠くに見えた