坂の名と地名 ― そのはざまで考える

広坂通りから見る広坂
坂学会の「金沢巡検」に同行したのは一年前。一行の研究意欲に刺激され、また、加越能地名の会に発表の場を与えられたこともあって、その後「坂道出典年表をつくる」(4月)、「『坂学』を考える―坂学会<俵アーカイヴ>を中心に」(5月)、「先人の足音―金沢の地名と坂」(6月)の三編をまとめた。本稿は集約したものである。
『加越能の地名』No48(加越能地名の会2016.11.1発行)寄稿
「坂の研究とはすなわち坂名の研究である」。わが国坂学研究の先駆け、横関英一氏(1900‐76)の至言である。古地図の考証から、町の形成には道路のほかに坂道が大きく関わるとして、地名のなかでも特異な存在である坂名の研究に取り組んだ。「初めに地名があった」(『まぼろしの村々』室井浩一、2012)研究の状況下で、上の世界と下の世界をつなぐブラックボックスたるところが坂の道路としての特異性だろう。
坂の語源は「境(さかい)」という。台地と平地の境が「坂」になまった。境目である崖は、人びとが境目を行き来することによって急な崖となだらかな坂に分けられる。崖は歩きやすいように削られ、場合によっては切り通されトラバース(斜め横断)する。崖に名がなく坂に名が付くさらなる区分も行われる。
イザナギ・イザナミ伝説(古事記)に出てくる「黄泉比良坂(よもつひらさか)」から、道としての坂に名が付くのは近世にまで待たねばならない。経済活動や軍事上の必要から造られた道は、脊梁に山地を抱える列島に、さらには「近道を選ぶ」習性から、必然的に坂を生んだ。往来が頻繁になると、人びとは知らず知らずにその坂の特徴をつかもうとする。広い坂が広坂と呼ばれるようになり、特徴を口にするうちに、略され、あるいは転訛したり間違われたりして坂名が固定する。
江戸時代、17世紀半ばに坂名は発生し、坂の歴史が始まる。家康が入るまでは小集落とわずかな道しかなかった江戸は、その最初の地誌とされる『色音論』に「車坂」(上野山下から下谷へ下りる坂)を著す。以後400年、坂学は東京を拠点とする坂学会(原征男会長)が横関氏の流れを受け継ぎ、いまに至る。
金沢にはかつて藩政時代からつづく由緒ある町名が数多くあった。それぞれに町の特徴をつかんでいて、金沢という都市の成り立ちを端的に表していた。ところが、高度経済成長真っただなかの1962‐74年(昭和37‐49)、新住居表示制度の実施で三分の一に相当する300余町が消滅する。
この春、主要45地点の「坂道出典年表」をまとめてみた。坂名が誕生したおおよその時期を史資料をもとに年代順に並べたものだ。表から、坂名が町名になったもの、町名が坂名になったものを抽出して掲げ(年代順。カッコ内は現町名)、拙稿の〆とする。
<坂の名が町名になった>
現町名として残るもの
- 広坂
- 子来町
旧町名に残るもの
- 尻垂坂通(兼六町、兼六元町、大手町、丸の内)
- 八坂町(東兼六町、小将町)
- 小尻谷町(東兼六町)
- 嫁坂町(石引4丁目)
- 新坂町(石引2・4丁目、本多町1丁目)
- 蛤坂町(寺町5丁目、野町1丁目)
- 木曽町(東兼六町、扇町)
<町の名が坂名になった>
現町名として残るもの
- 下石伐町→石伐(W)坂
- 常盤町→常盤坂
旧町名に残るもの
- 二十人町(石引2丁目)→二十人坂
- 長良町(寺町1丁目)→長良坂
- 桜畠(寺町1‐3丁目)→桜坂または仙人坂
- 仙人町(清川町)→仙人坂または桜坂