蛤坂「毒消しゃいらんかね」物語
蛤坂(はまぐりざか)は、金沢の坂の名としては珍しくウイットに富んだものである。犀川大橋の南詰め野町1丁目から、寺町通りの寺町5丁目に上る。中程から犀川沿いの清川町に下りる貝割坂(かいわりざか)を含めて、その名付け方に昔の人の心の豊かさ、鷹揚さを思わずにいられない。
ご存じ、焼けてのち口を開けたハマグリからその名をいただいた。命名したのは世人。庶民というべきか。だれ言うとなくそれまでの妙慶寺坂が蛤坂になり、町は蛤坂町(旧町名)になった。通称が正式名になった例はいくつもあるだろうが、半ば遊び心からきたであろう名前がそのまま居ついてしまったのはなんとも痛快である。
焼けて口を開くまで33年
妙慶寺は藩政初期に建立され、1615年(元和元)門前の東西両側に10軒の家が建って門前町が成立した(由緒書)。当時、丸山と呼ばれた犀川左岸の小丘にあり、小丘は崖がせり出して川幅を狭めていたことから氾濫による崖崩れをたびたび起こしていた。川岸を築いて切り開いた妙慶寺坂は「たいへんに始末の悪い崖っぷちの坂」(金澤・野町の四〇〇年)だった。1700年(元禄13)坂は決定的な崖崩れで通行不能となる。
1733年(享保18)4月、川下の雨宝院から出火した火は折からの強風で大火となり家屋573軒と瑞泉寺、神明宮など7寺社を焼く。逃げ惑う人々で大混乱、けが人が多く出た(亀の尾の記)こともあり、加賀藩はようやく妙慶寺坂の改修に着手、家々を立ち退かせ川岸を突き出して護岸とする。焼けて口が開いたことからハマグリ坂―。
崖崩れから大火までだけで33年の時を置いている。この間、崖崩れ現場には竹矢来が組まれ人びとの通行は禁止された。坂の上には「寺町の追分」と呼ばれる鶴来街道と野田往還(寺町通り)が分岐する主要交差点(蛤坂交差点)があり、幕府の巡検使(特使)の通り道になっていた。鶴来街道をきた巡検使は追分の手前の三間道で野町4丁目へ下りた。「巡検使に見られたくなかった」藩側の思いがあったかもしれない―と郷土史家南野弘さん(85)は言う。
笑いの刃(やいば)
復興が先で坂の改修が後回しになったことは、当然考えられることである。だが、不便をかこつ庶民に33年は長い。ウイットは毒を含む。「笑いの刃」ともいう。蛤坂の名付けにはアイロニーに通じる風刺を感じてならない。
ちなみに、1788年(天明8)京都に大火が発生した際、京都御所の開かずの門が開かれ、この門から雲上人が逃げ出したことからつけられた「蛤御門」の故事に倣ったとする説が地誌に紹介されているが、年代が逆である。幕末に起きた蛤御門の変などという有名史実に惑わされたか、ハマグリという軽妙な響きにとらわれたこじつけであろう。
余談ながら、この時の京都大火を金沢から「見た」という人の話を南野さんは本で見て覚えている。「空が赤く染まった」という。南野さん自身、富山空襲や福井大火を自宅からほど近い泉野の原っぱから見ている。富山空襲では山越しに米軍機から落とされる焼夷弾まで見えたという。それほど昔は空気がきれいだった。
味もそっけもある貝割坂
貝割坂は、蛤坂の途中から分岐して料亭「山錦楼」裏を通る。1865年(慶応元)7月、犀川の河原に吹屋坂下(いまの桜橋付近)まで1kmほどさかのぼって堤防を築き、新しい道が敷かれた(金澤古蹟志)。新道へ下りる部分が貝割坂。蛤が割られたことによる命名とみられる。「いまならさぞかし味もそっけもない名が付けられたであろう」と南野さんは編集委員長として刊行に関わった「金澤・野町の四〇〇年」の中で書く。蛤坂の開通から130年余、風刺の精神はなお生きていた。
新道は当時、幅約3m、長さ約600m(皇国地誌)。蛤坂新道と称され、こちらも旧町名の洗礼(現清川町)を受ける。貝割坂はその後、1924年(大正13)の犀川大橋の鉄橋化に合わせ大橋の南詰めにつなぐため二分され、車が一方通行の現在の姿となる。
三角地に火の見櫓
大橋の鉄橋化が成った同じ年に、蛤坂と貝割坂の分岐する三角地に鉄塔の火の見櫓が建つ。戦前までは半鐘が吊り下げられていたが、戦争となって防空用のサイレンに替わり、戦後は時報を告げるようになる。1965年(昭和40)からはダムの放水警報用となって利用はつづいたが、老朽化のため1993年(平成5)撤去される。
同時に設置された浅野川大橋北詰めの火の見櫓の鉄塔は、歴史を伝えていまに残る。消防ホースの物干し場に使われた一時期を経て、なおかつ高さは半分以下の10mほどになってしまったものの、わが国近代の歩みを物語る遺産として国登録(2005)の有形文化財に指定されている。
横町(よこちょう)
妙慶寺に隣り合う成学寺(創建は1647年=正保4)の寺地にはもと、加賀藩二代藩主前田利長の夫人・玉泉院を祀る玉泉寺(現在は野町3丁目)があった。妙慶寺坂が崩壊した際には、人びとは玉泉寺の横門前地である「野町一丁目往来の道筋」(改作所旧記)を通ることを余儀なくされるが、当時は横町(よこちょう)と呼び、その小路は牛馬はおろか人が傘をさして行き交うこともできないほど狭かった。
野田往還の拡幅により横町は飲み込まれる。いま、野町広小路から上る寺町通りの「野町広小路バス停」部分が少し広くなっているのは横町の残余部分とみられている。小路を指して「かつて吹屋坂と呼んだ」とする説がある。吹屋は鋳物工場のことで、道筋に吹屋があったかどうかが詮索されるが、野町吹屋場は北陸鉄道石川線の野町駅付近にあったと考えられていること、吹屋坂はW坂の旧名の一つであることを思えばやや“距離”がある。
蛤坂周辺には、ほかに料亭「つば甚」裏の甚平坂(サカロジーでは「つばや坂」)や、通行の主役である子どもがつけたのか、いまは通れない「ちょんちょんだん」、つい最近まで通れた元料亭「望月」裏の無名の坂がある。ことほどさように、蛤坂辺りには小さな坂が多い。なぜだろう。人と坂が織りなすシンフォニーと言ったら気障か。
<参考文献>
- 『金澤・野町の四〇〇年』野町公民館「金澤・野町の四〇〇年」刊行委員会、2000
- 『毒消しゃいらんかね』うた:宮城まり子、作詞・作曲:三木鶏郎、1953