金沢の坂道コラム

愛と虚構の瓶割坂

暮れなずむ坂道。犀川大橋を渡り、片町へ下る

暮れなずむ坂道。犀川大橋を渡り、片町へ下る


義経は身重の「北の方」を同道していた。瓶割坂(かめわりざか)までたどりつくと北の方が急に産気づき、路上で出産する。不意の出来事とあって、胞衣(えな=胎児を包んだ膜と栄養源の胎盤)を入れた瓶を落とし割ってしまう。「故に瓶割坂の名、遺(のこ)れり」(金澤古蹟志)。兄頼朝に追われた源義経が、北陸道(後の北国街道)を経て奥州下りしたときの伝承からきている。坂は野町広小路から犀川に下る。

「真偽のほどは、となるといささか怪しい」と瓶割り説に異を唱えるのは郷土史家南野弘さん(85)だ。『義経記』などによれば、奥州下りの道筋は「北陸道の俗に浜通りと呼ばれる海岸寄りの道」であった。県内に入った一行は加賀から小松、松任を通り、金沢では宮腰(金石)-大野-阿尾が崎(粟崎)と足跡を残している。となると、瓶を割った坂を通ることはなく、その先の鳴和滝での宴もフィクションということになる。南野さんは同じ義経記にある「亀割山にてお産のことと」というくだりから、山形県内での話と混同した可能性がある、と説く。


『金沢城下図屏風(犀川口町図)』(19世紀)に描かれた瓶割坂。左へ蛤坂

『金沢城下図屏風(犀川口町図)』(19世紀)に描かれた瓶割坂。左へ蛤坂


市電が上った坂


坂の途中に神明宮がある。「田舎から出てきた少年にとって、お宮の真ん前を轟音を轟かせて上り下りする市内電車は強烈な都会の風景だった」(国本昭二著『サカロジー-金沢の坂』)。国本さんは昭和14年、大聖寺から近くに移り住んだ。少し遅れて生を受けた筆者も、徐々にテリトリーを広げ小学校低学年のころにはこの辺りまで手を伸ばしていた。濃緑色の車体を揺さぶって上る“青電車”に圧倒されたことを覚えている。

2月11日付の北陸中日新聞に市電の廃線50年をとらえた記事が載っていた。取り上げられたのは「モハ2202」と呼ばれた半鋼製の車両。「坂道に対応するため通常の倍の4個のモーターを搭載していた」とある。青電車はその一代前の木造で、開業当初から走っていた。念のため青電車もそうだったのか、北陸鉄道に訊いてみた。「モーターは2個でした。(モハ2202に替わって)4個にしたら安定した走行ができるようになった-と記録にあります」。そうか、青電車はモーター2個で走っていたのか。それであえぎあえぎ上っていたのか―。


昭和50年代、拡幅前の瓶割坂(高室信一著『金沢・町物語』より)

昭和50年代、拡幅前の瓶割坂(高室信一著『金沢・町物語』より)


見てはいけないもの


神明宮を「おしんめさん」と呼んでいた。境内には時にサーカスや見世物小屋が掛かった。中原中也の詩「サーカス」に書かれた世界を垣間見た。テントの中に張られた網を駆け上がる曲乗りのオートバイ、発射の爆音のあと発射されたその人が天井裏にいる人間ロケットは、境内にある樹齢1,000年を越すという大ケヤキの高さほど高いところに見えた。


樹齢1,000年を越すおしんめさん(神明宮)の大ケヤキ。高さは23mに及ぶ

樹齢1,000年を越すおしんめさん(神明宮)の大ケヤキ。高さは23mに及ぶ


見世物小屋が掛かったとき、外側の絵看板だけ見てこようと出かけた。小屋の裏に回ると、少女が一人いた。派手な衣装のまま泣いている。見世物は人の不幸を売りものにするものだった。筋書きはインチキだと思ったが、この場は違う。見てはいけないものを見てしまった―。小学生のわたしはいいようのない恥ずかしさに駆られ、神社裏の小便坂を駆け下りた。


富山大空襲

拙稿『蛤坂「毒消しゃいらんかね」物語』で1945年(昭和20)8月の富山空襲のことを書いた。南野さんが泉野の原っぱから見た富山の赤い空。それより少し前の時刻、B29爆撃機の大編隊は見上げる人びとの不安をかきたてていた。瓶割坂から蛤坂にかけ人だかりがあった。当時、元五枚町(現片町2丁目)に住んでいた坂江義彦さん(74)=尾山町、茶房・古物商=はその中にいた。子ども心にも「怖かった」。

B29は2波にわたって通過した。第1波は一発の投弾もせず富山市を通過した。空襲警報のサイレンは1日午後9時50分ごろに鳴り、同11時近くに解除を告げるサイレンが鳴った。無言のまま通過した第1波は長岡(新潟)を襲っていた。第2波は人びとが一安心して寝付いた後の2日午前0時36分から111分間、富山市街を猛爆した。無辜(むこ)の市民にすさまじい焼夷弾の雨が降った。死者約3,000人、破壊率99.5%という数字には身震いするばかりである。

「戦争だ、なんだかんだという以前に、人としてこういうことはやってはいけないということです」。東京大空襲について語った歴史学者磯田道史氏の言葉が耳に残る(NHKテレビ-BS3月9日放送『昭和の選択-噫(ああ)横川国民学校』)。富山も同じだ。

瓶割坂に面した家々の軒先に、空き家札が寂しげに揺れていたことを坂江さんは覚えている。疎開が生んだ現象だ。空襲を免れた坂道にも戦争は色濃く影を落としていた。

<参考文献>

  • 『ルメイ・最後の空襲-米軍資料に見る富山大空襲-』中山伊佐男、桂書房、1997
  • 『富山大空襲』北日本新聞社、1972

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蛤坂「毒消しゃいらんかね」物語

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蛤坂の名は、閉ざされていた道が大火のあと一気に開通したことから、あぶられて口を開けた焼きハマグリに例えてつけられた。それまでの妙慶寺坂にとって代わるほどのインパクトがあった。永い間待たされた町人の毒気(憤懣)も匂っている。

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