金沢の坂道コラム

懐旧の「大林区の坂・本覚坂」

水は低きに流る-という。その伝でいくと、東山(卯辰山)から西山(大乗寺山)につながる山々を背にした金沢の町は、大小の川が無数にあって当たり前。市街地全体が緩い坂の町になっているということだ。

大乗寺山、野田山から流れ出た水が雪解けの頃、奔流となってフキノトウが芽吹いたばかりの小川を走る―。荒々しい光景を筆者は子どもの頃、何度も目にしている。杉鉄砲の弾になる杉の子を採りに、小川を跳び越え跳び越えしていた時のあの奔流は地面がまさに傾斜していることを示していた。

辛うじて残る「名のある坂」

泉小学校の校下(校区)を旧の弥生校下と分ける旧野町校下は、郷土史家南野弘さんが著書に記す通り「実に坂の多い地域であるが、そのわりに坂道に名称がないのが実情である」。

大林区(だいりんく)の坂は、遠く白山につながる旧鶴来街道の六斗林から野町の旧南端国道(南大通り)へ下り、本覚(ほんがく)坂はこれと直角に結んで六斗林の一角にあった。蛤坂や瓶割坂、W坂といった校下のビッグを除いて、辛うじて残る「名のある坂」である。その存在はともに、旧町名の六斗林とともに人びとの脳裏から消えつつある。

野町の苗田圃・大林区

小川と大林区の坂は並行している。大林区とはいまの営林局。1886年(明治19)、弥生1丁目に創設され、改廃を経て1903年(同36)、最終的に廃止される。一帯は藩政初期までは藩の桃畠だった。大林区の設置に伴い広大な敷地は育苗田圃(いくびょうたんぼ)となり「野町の苗田圃(なえたんぼ)」と呼ばれた。廃止されたあとも「大林区」は通称となって残る。苗田圃の跡は大正に入って市営住宅の建設地となり、32年(昭和7)に南端国道が完成すると一転、弥生町にかけて一大住宅地が形成されてゆく。

この頃、大林区の坂が造られた。野町3丁目と弥生1丁目の境である約400mの直線の坂はそれまでは途中で旧桃畠町内(野町3丁目)へ入って下りるクランク道だった。大林区の通称はこれを機に坂の名ともなるが、55年(同30)に坂が舗装されると既になくなった施設への愛着も薄れたのか大林区の坂という呼び方は消える。桃畠と弥生の頭文字をとって「桃弥(とうや)通り」と呼んだり、坂の中ほどにNTT弥生分局が設置されると新しい局番となった4局にちなんで「4局の通り」になったりもする。車の普及が坂という感覚をなくさせてしまった。


NTT弥生ビル(右側)の方に大林区の育苗田圃が広がっていた


旧野町小と旧弥生小へのT字路は家1軒分ずれている


大林区の坂ができるまでは六斗林-野町間の本通りだった旧桃畠町


雪の“ダムごっこ”


南端国道の工事中、作業員による暴動事件があった。急行した警官隊に一夜のうちに鎮圧されるが、工事現場の空いたトロッコで遊ぶのを「ニコニコ笑って見守り、危ない時には助けてもくれた」作業員の大半が朝鮮半島出身者だったことをこの時になって初めて知る子らがいた。昭和の暗雲が広がりつつあった。

筆者は2歳の時、大空襲直前の東京から疎開、小学校を卒業するまでの10年間を桃畠町で過ごした。冬、上手にある銭湯からの排水を側溝に雪を投げ入れて止め、それを繰り返して最後は雪混じりの大水となって沼田川に落とす“ダムごっこ”という遊びをした。排水は温かく、ダムの雪をまたたく間に溶かす。ダムが壊れかかるとスコップで一斉に突き崩し、次のダムに走る。これを3度ほどやって、4mほど下の川にゴーッと音を立てて落ちるさまを歓声を挙げて見守る。

遊びの少ない時代のメーンイベントの一つだった。障がい者のK君も転校生のN君も一緒に走った。汗をかくほど体は温まり、親たちからは雪透かしになる、と喜ばれた。カネのかからない、傾斜があったからこその遊びだった。

急だった本覚坂


緩やかに上る本覚坂(旧鶴来街道六斗林)


本覚坂は大林区の坂を上って左折する、沼田川までの約150m。一見、坂のようには見えないが、かつて橋があった沼田川の暗渠の上に立つと本覚寺門前から緩やかに上り始めているのが分かる。「昔は結構、急だった」と南野さん。そのため砂利道の坂の途中で立ち往生する荷車があった。下校時の子どもたちが当然のことのように後押ししたが、荷車が下肥の桶を積んでいた時は最悪だった。桶が揺れるごとにダボーンという不気味な音がした。

舗装されたのは日中戦争が始まった37年(同12)頃。道幅も均一化されたが、併せて急な坂がだらだら坂にならされた。軍人が馬もろとも沼田川に落ちたことがきっかけだった。救出に梯子を下ろすほど深かった川はこの時、暗渠になった。西下する沼田川は南端国道の開通で交差するここでも暗渠に。橋が架かっていたことを物語る鉄製の欄干の片方だけがいまも歩道脇に残る。


沼田川の暗渠化で取り残された欄干(野町3丁目)


戦況に合わせて召集兵が増え、野村練兵場に近い六斗林の民家は軒並み収容しきれない兵員の分宿所となる。朝晩、ラッパの音が町を包んだ。時勢の悪化は着実に進んだ。本覚寺門前の代名詞だった本覚坂の名は絶えて久しい。


(加賀嘉紀智君に捧ぐ)

<参考文献>

  • 『金澤・野町の四〇〇年』野町公民館「金澤・野町の四〇〇年」刊行委員会、2000
  • 『金沢市 六斗林ものがたり』六二親和会、2002
  • 『幼事然々(をさなごとしかじか)』那谷敏郎、橋本確文堂企画出版室、1998

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