金沢の坂道コラム

私家版「蛤坂界隈」

蛤坂にある成学寺(野町1丁目)はうちのお寺である。子供のころから祖父母によく連れて行ってもらった。長じても、家が近かったこともあって、なにかと思い出す出来事が周辺に多い。蛤坂にかこつけて、私家版としていくつかのことを記しておきたい。

先祖


『金沢城下図屏風(犀川口町図)』に描かれた蛤坂(左)


ご先祖様は何をしていらっしゃったのか。親から聞いたような気もするが、曖昧模糊としていて、結局はわからずじまいだった。三つのキーワードを挙げる。落語の三題噺(ばなし)はお客さんから投げられた三つのお題をまとめて一つの噺に仕立て上げる芸。これに倣う。後の世の「ファミリーヒストリー」を探る手がかりとなれば幸いである。

<その1 一国一城令>

成学寺は前号『蛤坂「毒消しゃいらんかね」物語』で書いた通り、加賀藩二代藩主前田利長の正室玉泉院を祀った玉泉寺の跡地に創建された。利長は隠居後の1614年(慶長19)に死去、居城だった高岡城は翌年の一国一城令により廃城となる。家臣団は本藩である金沢に戻るが、その中の一人が先祖だった。推測である。

<その2 越中屋甚左衛門>

「越中屋」が代々の姓、「甚左衛門」が主な名であった。先代住職に訊いたところでは、1870年(明治3)に現在の姓に改姓するまで過去帳は代々この姓名でほぼ統一されている。改姓して初代の甚左衛門が1866年(慶応2)お墓を現在のものに改め、自家用の過去帳を作った。新姓甚左衛門は2代までつづく。筆者は新姓5代目である。

<その3 古手屋>

古着屋を昔は古手屋といった。「古手類小売商」が正式のよう。リサイクルである。明治の家業がそれだった。武士を廃業した多くの侍たちが選んだ職業の一つ。店は泉町(現泉1丁目付近)にあり、野々市・松任方面から野菜などを売りに来た人たちが町中で稼いだ金を帰り道、ここで落とした。宮市大丸(現大和)ができて寂れる。


坂上から犀川大橋を望む。


1939年(昭和14)年8月30日、東京にいた父に赤紙がくる(現役入隊は1933年=昭和8)。4日後の9月3日、充員召集の兵として本籍地金沢にある第九師団輜重兵第九連隊に入隊、その日のうちに兵站自動車第272中隊に編入される。


父が現役入隊した「自動車部隊」(1933年=昭和8)


父はこの時、満蒙国境のノモンハンに送られると思っていた。ノモンハンでは4ヵ月前の5月に国境線をめぐって満州国とモンゴル人民共和国の間に紛争が起き、モンゴルを支援するソ連軍の強力な戦車軍団に、日本軍と満州の連合軍は苦戦していた。一升瓶にガソリンを詰めて敵戦車の下に飛び込むという悲惨な戦況が伝えられており、ノモンハンは生還かなわぬ戦場だった。

入営5日目の7日夜、全員呼集がかかる。上官が「名前を呼ぶ者は一歩前へ出ろ」と言う。自分の名も呼ばれた。その数7、8人。ノモンハン行きにおびえる空気の中、次に上官の口を衝いて出た言葉は「即日帰郷を命ず」であった。「郷=ごう」とは「軍内部」に対する「一般社会」を意味する。「娑婆(しゃば)へ帰れ」。召集解除である。

営門を出、連れだって深夜の寺町通り(旧野田往還)を下る。長く緩い勾配。走り出したい気持ちを抑えて歩く。成学寺に近い寺町5丁目に銭湯があった。男たちは番台の親父に頼み込んで2階へ上がる。車座になって酒をのむ。どうせ汽車は朝まで動かない。付き合ってのむだけだ。こみ上げるうれしさを抑えつつ…。帰った東京の自宅では、カーテンを閉めて祖父と父は昼間から酒盛りをした。

日中-太平洋の15年戦争では、父の世代である大正生まれの男子の7分の1にあたる200万人弱が戦場に倒れた。1942年(昭和17)筆者誕生。東京大空襲に前後して一家は金沢へ帰る。筆者の小学校時代、寺町通り筋にはその半分ほどの距離の間に戦争未亡人の母親と二人きりで暮らす同級生が2人いた。


寺町通り(旧野田往還)を下ると銭湯があった。


祖母

筆者にとって蛤坂は特別な思いのある坂である。“ばあちゃんっ子”を自認する筆者は5人兄弟(姉妹)の1番目。総領の甚六で、その意味するとおり「故事にのっとった」ろくでもない、世間知らずの甚六であった。

一日中ぶら下がっている孫のため祖母は時々、孫を連れて町へ出た。南端国道と呼ばれるやけに広いコンクリート舗装の道路が近くにあって、自宅は当時、郊外に位置していた。歩いて、時には市内電車で映画などを観に行った。買い物もしたかもしれないが覚えていない。

そんな帰り道。いつも犀川大橋を渡ると蛤坂を上った。ある日、祖母は疲れたのだろう、火の見櫓の下で一休みした。孫も隣に座った。そっと祖母の顔を見る。ちょっと前のおもしろかった、楽しかったときとは違う顔がそこにあった。これから帰る家がうっとおしいのだ。怖いといった方がいいかもしれない。だれが怖いのか。祖父である。

祖父はワンマンだった。酒が入ると粗暴になった。帰りが遅い、と怒鳴るに違いない。逃げる祖母を追いかけて隣家まで上がり込むほどの人である。そんなことはお構いなしの人である。逃げる祖母について孫も逃げる。孫の前で、隣家の人の目の前で祖母を打擲する。祖父に対する恐怖心は孫も同じである。孫はただ、大息をつく祖母の顔を見つめるだけだった。

小学校へあがる前の一時期の話だが、蛤坂はこの一件で孫の祖父に対する印象を凝固させてしまった。

サカロジストの国本昭二氏は坂を「上と下の違った小宇宙をつなぐマジックボックス」だと言った。日常と非日常をつないで、楽しみがいっぱいに詰まったマジックボックス。そうではなく、上の風景と下の風景をつなぐだけの、ただの箱にすぎない蛤坂を孫はいまだに好きになれない。


蛤坂・貝割坂分岐点の三角地。かつて火の見櫓があった。


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