桜坂物語 - 段丘の有為転変

桜坂
桜木の自宅から桜畠を抜け、桜坂を下りて桜橋を渡った―。中学・高校の頃、兼六園内にあった県立図書館へ行くときの通りの名を挙げると桜づくしになる。人生で最も多感な時期である。その割に、桜に関する思い出があまりない。どうしてか。答えは簡単、あまり桜がなかったからだ。
時節が悪い。昭和30年代、世の中は高度成長へひた走っていたのだろうが、基幹産業の鉄工・繊維が不振のわがふるさとはまだその恩恵に浴していなかった。悠長に桜など愛でているときではなかったのだろう。ましてや“地獄”ともいわれた受験戦争真っただ中。灰色とまではいかなくとも、わが身の置かれた小宇宙に桜色は乏しかった。

自転車も車も人も…たいへんです=3月27日写す
坂名由来、根源は桜畠
桜坂の歴史は新しい。名前が付けられたのは1892年(明治25)。歴史をさかのぼっていくと、「桜」の由来が見えてくる。旧町名桜畠がその根源だが、先に「W坂は西へ移動した」(3月31日付)ことを取り上げた行きがかり上、麓を接するW坂(石伐坂)との関わりから入ることにする。
W坂がいまの桜坂の中ほどにあって吹屋坂と呼ばれた頃、犀川に渡し舟があった。上流の上舟場は桜畠の小名で吹上と呼ばれた長良坂付近にあり、吹屋坂には下舟場が対岸の本多町方面とつながっていた。
下舟場は一文橋が架かったことで廃止になり、その一文橋も少し下がった現在の桜橋の位置に新しく橋が架かった91年(同24)に廃止になる。新しい橋は犀川大橋に対し犀川小橋と呼ばれ、7年後の98年(同31)には架け替えられて桜橋となる。犀川小橋は犀川新橋とも呼ばれ、大橋の下流に同じ頃、新橋が架かったためその名を譲って桜橋に改名されたとみられる。
同時に造成、同時に改修
橋は寺町往来へ上がる近道としての坂を必要とする。桜橋南詰めである左岸にはすでに桜坂の原型である下石伐町(現清川町)-桜畠(現寺町3丁目)間の当時無名の坂と、いまのW坂の原型である新坂があった。金澤古蹟志、稿本金澤市史など地誌をつき合わせると、桜坂になる前の坂と、のちに吹屋坂の呼称を奪ってしまう新坂は65年(慶応元)に同時に切り拓かれ、すでに小路が通じていた。原型桜坂は桜橋の架け替え前(92年)に、新坂は桜橋の誕生(98年)に併せて改良が加えられ、いまに通じる変容を遂げてゆく。

旧桜畠の先は寺町通り
新坂は通行の主流となって、30mほど下がったこちらのほうが吹屋坂と呼ばれるようになり、石伐坂、W坂になる。元の吹屋坂は桜坂の拡幅により削られ分断されて、ただの石段になってしまう。一文橋が架かったことで二つの坂ができ、桜橋ができたことでともに整備が進む。「伊勢は津で持つ~」(伊勢音頭)ではないが「坂は橋で持つ(橋は坂で持つ)」関係がこれほどはっきりしているところはほかにないだろう。
橋詰めは現在、桜坂の幅がなお狭いことから1974年(昭和49)につくられた新桜坂を含め三つの坂の上り口になっており、これに橋と上下の沿岸道路が交わる六差路になっている。

新桜坂
物語性ない町名復活
「一名仙人坂ト云ウ」。桜坂のもう一つの呼び方について、大正期を中心に筆者の氏家栄太郎氏が市内を歩き回って調べたという『金澤市街 温知叢誌 乾・坤』が書いている。坂の下に仙人町があったことからきているが、坂の上り口である下石伐町と界を接していたというだけでそれ以上のことはわかっていない。それよりも、昭和の新住居表示でこれらの町名が消え、最近になって復活だ、なんだという動きがあることに旧下石伐町を母体とする町会・清川町石伐会の岡田健一町会長(74)は腹が立つ。
「いまさら戻れない。も一つ言えば、市の(旧町名復活の)動きはピンポイント的で物語性がない」。戦後、下石伐町には14軒の家があった。織機の部品を造る工場があった。金箔職人がいた。旧満州から引き揚げてきた人がいた。中学生が15、6人いた。それがいまは住家一軒の町になった。一軒は岡田家。あまりの変わりように「そんな気になれない」のが本音かもしれない。岡田さんはこのところずっと町会長を務めている。
「城中花見の場」
桜坂と桜橋、その名の由来となった桜畠は、金沢城から桜を眺めるためにつくられた「城中花見の場」でもあった。加賀藩三代利常が本丸の南にあって眼下に見渡せるこの地に数百株の桜の増殖を命じた。1617年(元和3)頃の話らしい(三壺記)というから、桜は実に300年近くの時をかけ地名として花開いたことになる。
この間、一帯を飾ったであろう桜はいまはどうなっているのだろう。殿様気分で花見が楽しめるのか、と今春、金沢城本丸からつづく辰巳櫓(やぐら)跡に上った。寺町台の旧桜畠は段丘上に家が建ち並んでいて、桜はちらほらとしか見えない。本多の森の茂みが一部を覆っており、桜はむしろその奥の大乗寺丘陵により多くあるようだ。真下の犀川縁は桜橋を中心に桜並木が形成されているが、こちらのほうはビルにさえぎられてまったく見えない。桜畠が消えたいま、坂や橋の名に「桜」を遺したことはせめてもの救いといえる。

城から見た旧桜畠方面=4月10日写す
桜坂経過年表
1865(慶応元) | 崖に小路を切り拓く |
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1891(明治24) | 一文橋廃止・犀川小橋架橋 |
1892(明治25) | 小路を改良-桜坂と命名 |
1898(明治31) | 小橋を架け替え桜橋に・新坂(W坂)改良 |
1974(昭和49) | 新桜坂開設 |