金沢の坂道コラム

W坂は西へ移動した - 地誌と古地図から確かめる

川下(右)に向かってアルファベットの「W」が浮かぶW坂

川下(右)に向かってアルファベットの「W」が浮かぶW坂


坂名はその時その時の状況に応じて付けられたものが多い。だから、いくつもの名前を持つ坂の場合、どれを本名とするかは容易に決められない。通称・俗称とされるものが定着した時、やがてそれが固有の名前となることからすれば、もともと坂に本名などないことになる。

石伐坂」と坂標(坂道標柱)にあるW坂(清川町桜橋先)は、ほとんどの人が「ダブル」坂と呼んだとしても、藩政期に石伐職人の組地があったことからきている石伐坂であり、旧制四高の学生が名付けたというW坂であることに変わりはない。どちらも本来、通称である。ましてや吹屋坂、清立寺坂、くの字坂という別名があるとなると、このうえ「新坂」と呼ばれた時期があったとは口にしにくい。

「新坂」

だけど、言わなくてはならない。W坂が新坂と呼ばれた時期はあった。金澤古蹟志は「慶応元年(1865)犀川蛤坂の道脇より新道をつけ、河原を築き出し」、崖に切り開いた坂を「新坂と呼べり」と記している。加能郷土辞彙も新坂の項で「慶応元年にこれを開いた」と書く。新坂に接する桜坂で、稿本金澤市史は「蛤坂新道を開けるとき初めて作れり」とし、これら3つの地誌から新坂と桜坂は同時に造成されたことがわかる。

新坂は「何か」に対する「新」坂である。小尻谷坂尻垂坂(兼六坂)に対する新坂であった(延宝のころ1673-80年)ように、また、嫁坂の後にそばにできたからその名が付いた新坂のように、もとからあったものに対する「新」である。

もとからあった坂(旧坂)とはどこか。それが吹屋坂である、といったら混乱を招くかもしれない。しかし、いま真実に最も近い説だと思うから話を続ける。新坂が吹屋坂であり石伐坂でありW坂であるとしたら、そのもとは…。桜坂を上ること30mばかり先にある「名無し坂」。名も無い坂がもとの吹屋坂なのである。吹屋坂は新坂に「庇(ひさし)を貸して母家を取られた」ことになる。


眺めはいいが、つぎはぎだらけの旧坂・名無し坂

眺めはいいが、つぎはぎだらけの旧坂・名無し坂


「南野説」


この説を立てた郷土史家南野弘さんに話を聞く。金澤古蹟志、加能郷土辞彙とも新坂の位置として「吹屋坂の西方」を挙げている。これが「南野説」の立証の決め手である。ここにいう吹屋坂をいまのW坂に置き換えると、W坂から西の坂となると料亭つば甚裏のつばや坂(甚平坂)しかない。つばや坂を新坂とするのは間違いである。逆にいまのW坂を新坂に置き換えると、吹屋坂は新坂より東になければならない。名無し坂が旧坂にあたる。名無し坂はもと吹屋坂、いまのW坂のもとの姿なのである。

「だいたい、ああいうところに坂標があるのがおかしい」。南野さんはこの話が新聞に取り上げられた7年前、坂下に石伐坂の標柱を建てた市に掛け合った。「調べます」と回答があったが、それっきりという。標柱は「右 石伐坂 左 桜坂」となっている。石伐坂のもう一つの名である吹屋坂は桜畠(現寺町3丁目)から下石伐町へ下りていたから、犀川縁に標柱はあるべきなのだが、現状に合わせるとそうもいかないのだろう。名無し坂は桜坂に分断されている。

古地図・絵図

古地図から迫ってみよう。1843年(天保14)ごろの金沢城下を描いた『金府大絵図』(玉川図書館蔵)には、寺町台から犀川へ下りる道として本因寺の東側小路(旧上石伐町地内、現寺町3丁目)を入って妙福寺と善隆寺の裏小路へ曲がり、坂道に至る道が描かれている。坂を下りた先には一文橋が架かり、対岸の幸町へ渡る。


一文橋(赤い部分)へ下りる旧坂(『金府大絵図』)

一文橋(赤い部分)へ下りる旧坂(『金府大絵図』)


絵図から南野説を裏付けようとする『宮竹屋・金沢城下図屏風・蛤坂新道』(2010)の著者米澤義光さんは、本因寺東側小路を直進すると崖で行き止まりになる(加陽方形図鑑・1842年)ことや、一文橋の対岸は「才川中川除町」(現幸町)である(金沢町図・1870年)ことを補強する。犀川へ下りるにW坂はなく、小路を三曲がりした末にたどりつく崖、そして坂道。「これが現桜坂中央部で交差し犀川縁へ降りる狭い石段坂道と推定される」。名無し坂、つまり元祖W坂のことである。


川縁へ下りる旧坂下部。脇に石仏群

川縁へ下りる旧坂下部。脇に石仏群


渡し舟→一文橋→犀川小橋→桜橋


旧坂。武士や町人、日傘をさす婦人やお年寄り、にぎわう茶店、舟を渡す姿などが描かれる(『金沢城下図屏風』)

旧坂。武士や町人、日傘をさす婦人やお年寄り、にぎわう茶店、舟を渡す姿などが描かれる(『金沢城下図屏風』)


1800年代の犀川左岸の秋景を描いた『金沢城下図屏風』(県立歴史博物館蔵)には坂と渡し舟が描かれる。一文橋ができる以前の様子であろう。絵で見る限り、坂は地形を利用して踏み固められたように見える。元祖W坂がかなり以前からあったとされることにもつながる。

1891年(明治24)、一文橋より少し下がったところに新しく橋が架けられ、一文橋は廃される。犀川大橋に対し犀川小橋と呼ばれ、7年後には架け替えられて桜橋となる。渡し舟や一文橋があることでにぎわった坂も、新坂にとって代わられる。吹屋坂は近所の人たちだけが通る道となり、その名は通行の主流となった新坂に乗り移ってこれを呑み込んでしまう。

主役交代の過渡期を示すものとして『安政頃金沢町絵図』(同歴史博物館蔵)がある。橋につながる上下2つの坂が描かれている。安政期(1854-59年)のことだからありえないことなのだが、同館学芸員によると「(下方の坂は)あとで加筆したことが考えられる」という。もとの吹屋坂、現在の吹屋坂、どちらの坂も印象に強かった、そういう時代があったに違いない。


新旧2つの坂が描かれた『安政頃金沢町絵図』

新旧2つの坂が描かれた『安政頃金沢町絵図』


新旧の坂に差異


名無し坂を下りてみる。下り口が5mほどもある坂は桜坂までくると1mほどに狭くなる。桜坂の拡幅で削られたのだろう。斜め前に、犀川縁に下りる石段がある。清立寺の名残りとみられる石仏群を左に見て路上(堤防)に降り立つと、川向こうに路地の入口が見える。一文橋があったころは橋と路地はつながっていたと思われる。路地は左にカーブして幸町へ入っていく。

コンクリートで穴埋めしてつぎはぎだらけの名無し坂に比べると、W坂は坂の中央と外縁部にセイフティパイプが設けられ、補助段も付いて、新旧の坂の利用度の違いを見せつけている。W坂の上に民家を立ち退かせてできた園地がある。広がる景色を目にたばこをくゆらせていた古老が話してくれた。「この坂は昔から市役所の人がよく通るんや。それでようなった、とは言えるかもしれんね」。

余談

地誌を引用したことで吹屋坂の名を中心に書いたが、坂標にある通り5つの呼び名がある。坂上に吹屋場(鋳物場)があったとされる吹屋坂。清立寺坂は上り口に1869年(明治2)まで清立寺が、石伐坂は延宝のころ坂上に石工20人の邸地があったことからきている。くの字坂はいつごろの命名かはっきりしない。W坂に加え新坂も入れると、江戸川乱歩に「D坂」と書かれた東京・千駄木の団子坂、潮見坂、千駄木坂、七面坂を超える多さである。


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