石伐坂(W坂)周辺散策をより味わい深く。石伐職人の仕事内容と石の運搬方法を知る。
石伐職人の住む町
石伐坂(W坂)の坂標には、「藩政時代から坂の上に職人町があった。」とある。ここで言う職人とは、「石伐坂」の名の通り石伐職人を指す。この辺りの旧町名である「上石伐町(かみいしきりまち)」、現町名「下石伐町(しもいしきりまち)」の由来には「戸室山から石を伐り出す藩の石伐職人20人の組地があったことによる。」とより具体的に書いてあるが、石を伐り出す仕事とはどのようなものだったのだろうか。また、戸室山から伐り出した石は、どのように運搬していたのだろう。石伐職人の仕事内容や、石の運搬方法などを調べてみた。
金沢での石伐職人の歴史のはじまり
金沢での石伐職人の歴史のはじまりは、安土桃山時代の文禄元年(1592年)にさかのぼる。金沢城(尾山城)主、前田利家は、豊臣秀吉がおこした朝鮮征伐軍の軍務にはげんでいた頃、留守を任せた前田利長に金沢城の修復を命じた。当時、城のまわりは木の柵を設けたくらいの貧弱なものであったため、高く堅固な石垣をつくることは利長に課せられた重要な責務だった。利長は、金沢の近くには石垣に適した石がないため、他の石と比べてかたく、火にも強いと思われていた戸室山から切り出すことにした。
石伐職人の仕事っぷり
戸室山に入り、37〜42kgの玄のう(ハンマー)で打ち割ることで石を切り出したというのだから、なんとも力強い姿が思い浮かぶ。採掘した戸室石の原石は、その場で割って形を整え、石ノミで面を均して、石垣用材として完成してから運ばれたという。
戸室石の運搬
石伐職人は運搬まではしていなかったと思うが、おびただしい石を運び出すことは大変な重労働だ。金沢城から戸室山の採石場所まで約8〜12km。毎日数百人の作業員が出て、重い石は数人、さらに重い石は数十人、数百人以上の人数で釣りだした。金沢城の近くになると木ソリ(修羅)で「エンヤコーラ」の掛け声に合わせて引っ張った。その石を曳いた道が、今の「石引町」であることは有名だ。
石材の運搬には、以下の3つの方法を用いた。石材の運搬には急ぎで2日、大きな石は5日程度で運搬されたという。
当時を再現した石曳きが行われる「御山まつり」
石曳きを行っていた当時をしのび、また、現在の金沢の発展を感謝し、小立野台の振興を祈願するまつり「御山まつり」が毎年9月に行われる。この「御山まつり」にて、修羅車による運搬を再現する大石曳きが行われる。3トンの 戸室石を20人くらいで運ぶらしい。なんとも勇ましく、相当なパワーを有する仕事であったことがこの祭りの様子からも分かる。
石の博物館
戸室石は、金沢城の石垣として使われ、のちに兼六園の石橋、庭石や辰巳用水の石管などにも使われた。金沢城の石垣は「石の博物館」と言われるほど多種多様、場所によって石垣様式を使い分けていることで有名だ。石垣も全体を見るだけでなく一つの石を見つめ、石を切り出した石伐職人、加工した人、運んだ人、設置した人たちによって成し得た仕事として見つめると感慨深い。
野面積み(自然石積み)
ほとんど加工のない自然石を積み上げる技法。古い時代の石垣にみられる。
打ち込みハギ積み(粗加工石積み)
形や大きさをそろえた割石を用いて積み上げる技法。
切り込みハギ積み(切石積み)
石同士の接合部分を隙間なく加工して積み上げる技法。
石伐職人の暮らしや仕事っぷりに想いを馳せる
金沢の坂道コラム「新桜坂緑地の眺望もよいけど、桜坂途中にある名無し坂からの眺望はもっとおすすめ!」では、石伐坂(W坂)隣の桜坂途中にある名無し坂にて戸室山を望むことができることを紹介した。石伐職人も、同じように職場である戸室山を眺めていたことだろう。時には、子どもたちと眺め、「父ちゃんはな、明日からあの山に行って石を伐ってくるぞ。お城の石垣になる立派な戸室石をだ。」なんて誇らしげに話したのではないか。
石伐坂(W坂)を上り寺町台地に立ち、石伐職人の暮らしや仕事っぷりに想いを馳せる、そんな楽しみ方がこの坂にはある。
参考文献:
参考「金沢市 旧町名の由来:か行」、「金沢市 旧町名の由来:さ行」
参考「金沢城物語」森 栄末(著)
参考「金沢・町物語」高室 信一(著)
参考「金沢城の石垣に用いられている「戸室石」について - 石川県」
参考「金沢城・兼六園ガイドマップ」