金沢の坂道コラム

地勢と坂の名 ― 金沢の坂道に見るずれ

坂の名の由来には地勢と関わっているものが多い。坂の語源が「境」にあるとすれば自然なことと言える。ただ、地勢の変化に坂名が伴わず、ずれが生じているものもある。金沢の坂道に、坂と人が織りなす合縁奇縁を見る。


『加越能の地名』No53(加越能地名の会2019.4.1発行)寄稿

その1 亀坂消え、御小屋坂と混同


緩やかな凹みが残る亀坂。右側の道は御小屋坂へ下りる


亀坂(がめざか)を坂と判別するのは難しい。湯涌街道(野田・上野町線)にあった深さ8mもの谷が埋め立てられたからである。下りて上る、それが亀坂だった。坂が消えたため、下をくぐる御小屋坂を亀坂と思っている人が多い。

湯涌街道は小立野通り(金沢・湯涌・福光線)ができるまでは小立野台のメーンストリートだった。戸室山から伐り出した巨石を金沢城まで運んだ1593年(文禄2)ごろ、亀坂は延長11kmに及ぶ運搬路の最後の難関だった。群がり、亀のようにはいつくばって石を曳く人足たちの姿が想像できる。明治に入っても急坂は変わらず、坂下には荷車を押す〝押し屋〟がいた。坂が埋め立てられるのは1913年(大正2)。道は平になる。

72年(昭和47)、亀坂に通学路のトンネルが貫通、谷間を削っていた川(辰巳用水の分流)と亀坂は立体交差する。川沿いの道は、笠舞に設けられた困窮者のための救護施設「非人小屋」につづく御小屋坂。消えた亀坂に替わって、御小屋坂が〝ポスト亀坂〟に浮上する。坂でなくなった亀坂に坂標が建っている。ここが亀坂だと主張しているようである。

その2 W坂は新坂、先代の吹屋坂は「渡場道」


元祖W坂の吹屋坂。行き交う人びとと渡し舟(『金沢城下図屏風』)


W坂は幕末期に寺町台に切り開かれた新坂で、元は現在地より30mほど上にあった。坂上は石伐職人の住んだ石伐町(寺町3丁目)。そこから犀川へ下りるのがW坂の〝先代〟吹屋坂。

金澤古蹟志の森田平次が延宝金沢図から写した「二十人石伐」の絵がある。野田往還(寺町通り)の本因寺の東側小路を入って右折、二十人組が9人と11人に分かれて向き合う組地を抜けると、崖を下りる坂道(現在は石段)に出る。これが石伐坂から名が変わった吹屋坂。泉野町絵図には「渡場道(わたしばみち)」とある。坂下に渡し舟の舟着き場があった。1865年(慶応元)、この西側に新坂ができ、同時に新坂と野田往還をつなぐ桜坂ができる。

なぜ新坂がつくられなければならなかったのか。そこに橋ができたからである。橋は有料の一文橋として、舟着き場の下流側に架けられた。現在の桜橋近くである。一文橋の詰めから往還へ直近で上る新たな坂が必要になった。新坂が開かれ、賑わいは新坂へ移る。呼び寄せられるように吹屋坂の名も移り、新坂が吹屋坂と呼ばれるようになる。元の吹屋坂は名が消える。


その3 白山坂・二十人坂は昭和の坂


白山坂に残る大型防空壕の跡


二十人坂の陸橋は建造から80年


白山坂は「白山(しらやま)」を山号とする波着寺にちなむ白山町、二十人坂は鉄砲足軽二十人組の住む二十人町に由来する。波着寺は1619年(元和5)の建立、二十人組は1584年(天正12)の発足。このためか、勘太郎川を挟んで隣合う2つの坂はともに藩政時代からあると思われがちであった。


坂の完成は白山坂が1934年(昭和9)、二十人坂が39年(同14)である。小立野台の南側、崖は永く人びとの往来を阻んでいた。大陸の不穏な空気が様相を一変させる。満州事変(31年=同6)に端を発する15年戦争。台地に陸軍練兵場ができ、第9師団のある対岸寺町台と犀川を越えて結ぶ連絡道が必要になった。2つの坂は崖を突き崩して造成された。

軍靴の音を覚えている人がいる。白山坂には大型防空壕の跡がある。一本松町、揚地町をまたぐ二十人坂の2つの陸橋はトーチカを思わせる頑丈さだ。大型車両を通すため、坂は一方通行で役割分担する。寺町台へは、白山坂を下り上菊橋を渡って不老坂を上った。寺町台からは、長良坂(現在は歩行者専用)を下り下菊橋を渡って二十人坂を上った。住居表示の変更で2つの坂はともに石引2丁目になる。


あわせて読みたい

<番外編>小名「亀坂上」が語るもの

<番外編>小名「亀坂上」が語るもの

『金沢の坂道』取材中、ちょっと気になることがいくつかあった。場所を違えてそれぞれに名が付いていた卯辰山の獅子帰坂が、実は一点で結ばれた一本の坂だったことなど既に書いたものもいくつかある。本筋とは別の、気になることはまだまだある―。

コラムを読む

暗ん坂とショウズ - 笠舞のくらがり坂 異聞

暗ん坂とショウズ - 笠舞のくらがり坂 異聞

笠舞に、主計町(かずえまち)のものとは趣を異にするもう一つの「くらがり坂」がある。地元の人が親しみを込めて呼ぶ「暗ん坂」に、なんとはない、梅雨空を吹っ飛ばすカラッとしたものを感じる。

コラムを読む

「一名二坂」獅子帰坂

「一名二坂」獅子帰坂

卯辰山にバスが上る市道卯辰山公園線と、麓から上ってきた常盤坂が接するところがある。そこから東に頂上に向かう坂と、西に三社の杜に入る坂がある。二つの坂はかつてここでつながっていた。

コラムを読む

こぶらん坂 ― 山中のボブスレーコース

こぶらん坂 ― 山中のボブスレーコース

湯涌温泉の手前の小山に、かつて村と村をつなぐ往道と呼ばれる連絡道があった。山の子どもらはここをも遊び場とし、はしゃぎ、鍛えた。驚異的な近代社会の発展で、山のなかの坂道はどうなったか。

コラムを読む

地勢の変化と坂の名 ― 「坂道出典年表」改訂Ⅱ

地勢の変化と坂の名 ― 「坂道出典年表」改訂Ⅱ

旧四高生が名付け親というW坂、城づくりの巨岩を運び上げた亀坂、昔からあったような白山坂・二十人坂。それぞれに画期的な出来事があった。年表を手直しするにあたり、もう一度、足もとを見つめる。

コラムを読む

亀坂周辺を歩く-その2 線香坂・鶯坂

亀坂周辺を歩く-その2 線香坂・鶯坂

亀坂の周辺には、新しい道が開通して、そのために消えてしまった坂がある。一方で、観光とは無縁の、日々の暮らしに欠かせない坂、街並みに合わせた新しい坂がある。どっこい生きていた、線香坂と鶯坂―。

コラムを読む

亀坂周辺を歩く-その1 御小屋坂はどこだ

亀坂周辺を歩く-その1 御小屋坂はどこだ

亀坂付近を歩いていて、いろんな坂に出くわした。御小屋坂はその一つ。ただ、亀坂と連結している点で、筆者にとっては大発見のことがわかった。御小屋坂は本来、亀坂と直結していた―。

コラムを読む

亀坂は90°方向転換した

亀坂は90°方向転換した

亀坂は小立野台から笠舞へ下りる坂だとばかり思っていた。それにしても、築城のための戸室石をなんで笠舞まで下ろし、また引き上げたのか。台地上の旧湯涌街道をそのままくればよかったのに…。

コラムを読む

懐旧の「大林区の坂・本覚坂」

懐旧の「大林区の坂・本覚坂」

「坂、坂、坂ってぇーけどそれがどうしたってんでぃ。こちとら上も下も真ん中も坂だらけでぃ。もっとも名めぇなんてねぇザコみてぇな坂ばっかしだけどよぉ。いけねぇってんかい。ってやんでぃ。べらぼうめ」

コラムを読む

桜坂物語 - 段丘の有為転変

桜坂物語 - 段丘の有為転変

「城中花見の場」として桜畠は造成された。いまでもそれは楽しめるのか。そんな思いで桜の季節、金沢城本丸につづく辰巳櫓(やぐら)跡に足を運んだ。眺めはまことに結構なのだが、肝心のサクラがないっ!

コラムを読む

W坂は西へ移動した - 地誌と古地図から確かめる

W坂は西へ移動した - 地誌と古地図から確かめる

W坂は幕末期に切り開かれた「新坂」で、もともとは少し上ったところにある「名無し坂」が本来のW坂だった。W坂は、石伐坂、清立寺坂などの名を経て、吹屋坂と呼ばれたころにそばに新坂ができて、そちらへ乗り移る―。

コラムを読む

改訂:坂道出典年表 ― 見えてきた金沢の形成過程

改訂:坂道出典年表 ― 見えてきた金沢の形成過程

金沢の坂道の全体像をつかむよすがとして昨年4月、「坂道出典年表」を作成しました。今回はその改訂版です。この9ヵ月の間に知り得た情報を盛り込み、一部坂名を追加するなど手直ししました。「坂」から見た金沢の側面です。

コラムを読む

蛤坂「毒消しゃいらんかね」物語

蛤坂「毒消しゃいらんかね」物語

蛤坂の名は、閉ざされていた道が大火のあと一気に開通したことから、あぶられて口を開けた焼きハマグリに例えてつけられた。それまでの妙慶寺坂にとって代わるほどのインパクトがあった。永い間待たされた町人の毒気(憤懣)も匂っている。

コラムを読む

坂の名と地名 ― そのはざまで考える

坂の名と地名 ― そのはざまで考える

坂学会の「金沢巡検」に同行したのは一年前。一行の研究意欲に刺激され、また、加越能地名の会に発表の場を与えられたこともあって、その後「坂道出典年表をつくる」(4月)、「『坂学』を考える―坂学会<俵アーカイヴ>を中心に」(5月)、「先人の足音―金沢の地名と坂」(6月)の三編をまとめた。本稿は集約したものである。

コラムを読む

先人の足音 ― 金沢の町名と坂

先人の足音 ― 金沢の町名と坂

坂の名が町名になった町がある。町の名が坂名になった坂がある。町を歩くときの道しるべ(標)でもあった町名と坂名には、地名としての関わりがあった。文化遺産である町名と坂名に先人の足音を聞く。

コラムを読む

「坂学」を考える ― 坂学会<俵アーカイヴ>を中心に

「坂学」を考える ― 坂学会<俵アーカイヴ>を中心に

「坂の研究とはすなわち坂名の研究である」とは、わが国「坂学」研究の先駆け・横関英一氏(1900-1976)の言。俵元昭氏(1929~)は文献から、坂名に「時代別の分類」を加えた。―坂学のいま、について考えた。

コラムを読む

坂道出典年表をつくる

坂道出典年表をつくる

坂の名前に関する記述が、文献に初めて出てきたのはいつか―。金沢の坂道の全体像をつかむよすがとして「坂道出典年表」を作成しました。まだまだ未完です。同好の士のご指摘・ご叱責をいただき、よりよいものに仕上げていきたいと考えています。

コラムを読む

幻と化すか「善光寺」 ― 坂から学ぶ地名考事始め

幻と化すか「善光寺」 ― 坂から学ぶ地名考事始め

「幻の『善光寺』を追う」(2月)のタイトルでその由来を書き始め、番外編の「坂は人と人を繋ぐ」(6月)まで、都合7回にわたって本欄に掲載した善光寺坂。連載を通じて感じたことを加越能地名の会の機関紙「加越能の地名」No46に書いた。

コラムを読む

フリーペーパー『RINNGO』最新号の特集内に金沢の坂道を取り上げた経緯を編集部の3人にお聞きしてきた。

フリーペーパー『RINNGO』最新号の特集内に金沢の坂道を取り上げた経緯を編集部の3人にお聞きしてきた。

金沢美術工芸大学の学生有志により発刊しているフリーペーパー『RINNGO』、最新号では特集内に金沢の坂道が取り上げられている。編集部の3人に最新号のテーマ、坂道を取り上げた経緯をお聞きしてきた。

コラムを読む