亀坂は90°方向転換した
亀坂(がめざか)は今はない、と言ったら怒られるだろう。坂があり、ここが亀坂であることを示す坂標(坂道道標)も建っている。だが、付近の人たちの話を聞くと、ちょっと事情が違うようなのだ。
下馬(げば)地蔵のある小立野通り(県道金沢・湯涌・福光線)の石引1丁目交差点から南へ少し下がり、旧湯涌街道(県道野田・上野町線)に入る。すぐに右へ下りる坂がある。誘われるように入り込むと、右へカーブし小さな広見に出て、笠舞へ、犀川へと下っていく。多くの人はここを亀坂と呼んでいる。『サカロジー』の国本昭二さんも「亀坂は小立野3丁目から、笠舞2丁目におりる坂である」と、北から南へ下りるこの坂のことを書いている。
思い込みをリセット
亀坂は金沢城の築城のため戸室石を運び上げたことからその名がきている。深い谷を大勢の人足が修羅というソリや地車で石を引き上げる、地べたを這うその姿が亀に似ていたところから、と伝わる。10㌧を超える巨石が相手の重労働である。なのに、戸室山から運んだ石を小立野台地の湯涌街道へ引き上げ、笠舞へいったん下ろしてまた引き上げる、そんな無駄をどうしてしなければならなかったのか。街道をそのまま下ればよかったのではないか。前々からそう思っていた。
坂標がある道路の下は地下道である。なぜ地下道があるのか。ここに亀坂が90°方向転換したカギがあると思い、昔からこの地に住む人たちに話を聞いた。やはりそうだった。戸室石は笠舞へ下りてはいなかった。東西道である街道を小立野の端っぽの3丁目まで来て谷底へ下り、また上った。今は平坦な野田・上野町線は、街道だった頃はここで大きな下りに入り、谷川が流れる底まで下りたあとは再び上りにかかる坂道になっていたのだ。
立体交差を盆踊りで祝う
「元祖亀坂」ともいうべき街道の谷は埋め立てられて次第に緩やかになり、しまいには橋を渡すように立体交差して普通の道になった。「今はない」と言うのはそういう意味である。街道は南北に延びる「いわゆる亀坂」とは直角に交差し、交差部分は上が人や車が通る一般道、下が地下道になった。坂標はその上にある。地下道から小立野通りまでは「いわゆる亀坂」がさらに伸び、小さな水路もあって谷間であった痕跡を色濃く残している。
「下りて上る東西の道がもともとの亀坂。南北の坂道は笠舞と結ぶため谷川に沿ってつくられたのだろう」と道法外雄さん(80)=小立野3丁目=。川は谷に湧き出る清水(しょうず)を受け入れ、辰巳用水の分流となって今も流れる。深さは8mほど。石を運んでいた時代は10mを超えていたかもしれない。地下道前のカーブ付近で生まれ育った石川得一郎さん(72)=同4丁目=は「見上げる上の道は陸橋のようだった」と言い、その完成を祝って繰り広げられた盆踊りを懐かしむ。二人は「縦とか横とかではなく、この辺り一帯を亀坂と呼んだのでは…」とも口にした。
踏み跡が残る「野坂」
亀坂はこの先、後の世に地域の人たちから「石引通り」と呼ばれる小立野通りにつながっていく。戸室石を切り出した1593年(文禄2)からは103年後の1696年(元禄9)、石引(町)の名が初めて文献に登場している。運搬経路は戸室山麓の田島(たのしま)採掘場-清水-新保-別所-中山-茶の木-田上-野坂-上野-亀坂-石引の約11km。前田家の家臣団から派遣された奉公人が人足を務め、石切(いしきり)に通じた藩士が指揮を執った。
浅野川をわたる「たがみ橋」は現在の下田上橋。文禄の当初からあったが、「石の運搬には使わず、川に石の入った小袋を敷き詰めその上に板を渡して運んだようだ」と『小立野校下の歴史』にある。台地へ上る野坂は、下田上橋から延びる旭坂に沿って左側の崖にへばりつくようにして木々の間を縫っている。踏み跡とわずかな石段が残るだけで通る人はまれ。その名にふさわしく、緑に覆われると視界からすっぽり消えてしまう幻の坂である。
地誌に著された亀坂
地誌では、亀坂について、金澤古蹟志、加能郷土辞彙がともに「小立野にある」としか書いていない。亀の尾の記にいたっては上流1kmにある善光寺坂辺りまでを含めた総称なのか「赤坂」とあるだけ。これではわからない。この点、温知叢誌は「小立野新町ノ中程ノ坂路ヲ云ウ」とし、『小立野校下の歴史』も「小立野3丁目、旧小立野新町の通路(県道野田・上野町線)にある坂である」と、ともに坂は街道上にあることを示している。
ヨコの坂がタテになって、石を曳(ひ)く人足の汗や気概がしみ込んだ坂が消えてしまって、亀坂に対する人の想いは変わっていく。「景色が変わって、記憶が変わった」のは3.11(東日本大震災)の話ばかりではない。重く、悲しい言葉を借りるのは気がひける。
<参考資料>
- 『小立野校下の歴史』園崎善一 2001
- 『嵐山光三郎 ぶらり旅 ほろ酔い編』嵐山光三郎 北國新聞社 2011