亀坂周辺を歩く-その2 線香坂・鶯坂
線香坂
城づくりの石を運び上げた亀坂のやや西寄り、かつて「亀坂上」と呼ばれたところに線香坂はある。線香をつくった工場「線香場」があった小立野3丁目から、亀坂上の石引2丁目を抜け、笠舞2丁目へ下りる。わずか100mほどの長さながら、3つの町内をくぐらねばならないのはこの辺りが谷あいだったことと関わりがあるのだろう
「杉の若葉を水車(注1)の動力で乾燥させ、粉にして練った」。公民館報『イキイキこだつの』の編集に携わって15年、中島勇さん(84)=石引1丁目=は線香の製法にも詳しい。辰巳用水の分流が落ちる縁の近くで、落差を利して水車を回した。線香場は1805年(文化2)に操業を開始(加能郷土辞彙)、水車で物をつくったのは金沢でこれが最初(金澤古蹟志)とされる。「大正まで生産されていた」(中島さん)というから、100年余り持ったことになる。工場の前の坂は線香坂と呼ばれた。
別名:あらま坂
今、小立野郵便局裏の線香場跡に立っても線香坂は建物にさえぎられて見えない。亀坂が道路改良で坂らしくなくなったように、線香坂も線香場の廃業に伴って上部がなくなり、旧湯涌街道(野田・上野町線)の亀坂上が下り口となった。坂がなくなったデルタ地帯には住宅やアパートが建った。いつの頃からか、線香坂の名は消え「あらま坂」が通り名となった。周辺に店舗が数軒あり、坂に面した店の名から採ったとみられる。名付け親は近くの小学校に通う子どもたち。その年齢は最高で100歳超になんなんとしている。
「私たちの頃はもうあらま坂だった。水車の話は父から聞いた。庭に清水(しょうず:注2)が湧き、川(用水の分流)の向こうの人たちへ樋(とい)で水を配っていた」と60代の女性。坂の途中に畠があり、ふと時空を旅する錯覚にとらわれる。中島さんは「線香場を知る人は少なくなった。私たちが語り継いでいくしかない」と言い、線香坂を「子亀坂」「向亀坂」と呼んだ時期もあった、と話してくれた。
鶯坂
鶯坂は、春告げ鳥ウグイス(スズメ目ウグイス科)からその名がきている。台地の端の斜面はかつて緑に覆われた薮林であり、ホーホケキョの鳴き声にあふれていた。今や立ち並ぶ家々で斜面は隠され、野鳥が飛び交った面影はない。坂に沿って流れていた小川は暗渠になって、のどかな風景はかき消された。
亀坂の東、旧湯涌街道を250mほど行った小立野3丁目に鶯坂はある。小川は少し前までは旧の小立野新町と上野町の境界だった。坂の下り口は1.5mと狭く、石段を下り着いた先は3mと広い。上は古い町並み、下は新興住宅地という街の成り立ちを浮き立たせている。斜度計で測ると最大40°あり、亀坂から下りる御小屋坂の15°と比べるとなんとも急だ。「非常階段のよう」とはサカロジスト国本昭二さんの言である。
坂下「ウグイス通り」
名付け親は学生さんではないか、と中島さんの奥さん・玉榮さん(79)。坂上に金沢大学工学部があった。前身は金沢高等工業。第一次世界大戦が終わってまもない1920年(大正9)の創立だから、戦時中に改称した金沢工業専門学校時代を含め大勢の学生がここを通った。「今と違って、昔の学生さんは余裕があった」。金沢大医学部と、角間キャンパスへ移転した薬学部がそろってあったときもある。金沢美術工芸大、県立盲学校、県立金沢商業高が今も甍(いらか)を連ねる文教地区である。
坂下の通りは「ウグイス通り」と呼ばれた。宅地化が進む中で沿道の人たちが名付け、通りに看板を掲げた。「いいところへ引っ越してきた」と30数年前に移り住んだ中川礼子さん(87)=笠舞1丁目=は思った。夫の退職後にうってつけのところだった。「今も看板はありますか?」。愚問とも思ったが訊ねると「あるわけないやろ。こんなんやから」と周囲を見回した。清水がいたるところに湧いてウグイスののどを潤していた。辰巳用水の流路がコンクリート化され、清水が激減するのにそれほど時間はかからなかった。
(注1)関係の町名に油車、旧町名に水車、元車など。菜種油の採取や火薬の製造、製糸、精錬、精米・製粉などに利用された。金沢の用水は他都市と比べものにならないほど多く、その数は現在55本。総延長は150kmに及ぶ。
(注2)石浦神社(本多町3丁目)のわき水から大清水(はなかけ清水:笠舞1丁目)まで広く分布する。