金沢の坂道コラム

<番外編>小名「亀坂上」が語るもの

「亀坂上」から見る亀坂

「亀坂上」から見る亀坂


「この辺は昔、亀坂上と呼ばれた」。3年前の春、亀坂と坂上でつながる「線香坂」を取材中、60代女性が生前の父親から聞いたというこの一言がずっと気になっていた。HPコラム『金沢の坂道』が一段落、取材を振り返っているうち、調べてみたい気持ちが募ってきた。亀坂は藩政期、戸室山から切り出した石を運んだ谷あいの坂道。「上」は金沢城側を指す。旧湯涌街道(県道野田・上野町線)の小立野3丁目にある。

日々の至便さ

亀坂上は小名(こな)に属する地名であろう。「がめ」という読みについては不明だが、旧河北郡にそういう言い方がある(河北郡誌)。加越能地名の会の初代代表中村健二氏の「小名論」(1999年)によると、小名は「先民が日々の生業の至便さから、集落領域内の各地に特有の呼び名を付けた」ことによる、登録されていない、小字(こあざ)とは区別すべき微細地名である。この周辺には坂が多く、隣り合う線香坂には子亀坂、向亀坂、さらには現在、あらま坂の別名がある。交差する御小屋坂は藩政期に「非人小屋」があったことからきており、ともに現在の呼び方を含めて小名の部類に入る。


金沢城に向かって建つ下馬地蔵。中央奥が旧湯涌街道

金沢城に向かって建つ下馬地蔵。中央奥が旧湯涌街道


亀坂上の地に生を受け80年、「下馬地蔵」の講中世話人代表を務める上田智久氏(石引2丁目、呉服商)は言う。「いつごろからそう呼ばれていたのか、“上”の範囲はどこまでか、はっきりしないことが多い」。文献も残されていないようだ。唯一、後述する『戸室石引き道調査報告書』(金沢市、平成7年刊:以下、年号は元号で記す)の文中・説明図に「がめ坂上」「ガメ坂上」の表記がある。報告者の北島俊朗氏(同地名の会創設者の一人)が聞き取り調査したなかで、石引き道の地点の一つとしてその名を書き込んだものと思われる。

激変した街並み

上田氏はつづける。明治20年生まれの祖母からも近所の人たちからも「亀坂上」と聞いたし、氏もタクシーで帰宅するときは運転手に「亀坂上」と告げた。その小名がどこでどう消えたのか。傍らで芳子夫人がつぶやくように言う。「街の様子が大きく変わったからねぇ」。嫁いできた55年前は周りが全部、商店だった。八百屋、豆腐屋、古道具屋…、一杯飲み屋に銭湯もあった。湯涌街道が県道になり、その起点から分岐して小立野通り(県道金沢・湯涌・福光線)が通るまでの“ほぼ昭和”がすっぽり亀坂上の激変のときだった。「昭和(5年)の都市計画が平成(元年)に完了した」と上田氏は振り返る。この間、多くの家が立ち退き、街並みが変わった。現在、石引1丁目交差点(かつての市電小立野終点付近)に鎮座する下馬地蔵の位置も二転三転した。上田氏が世話人代表を務める地蔵講中は旧小立野新町時代の130軒がいまは30軒になった。

「私見だが、」として上田氏が遠慮がちに言う。「笠舞の人たちがそう呼んだのではないか」。小立野段丘と犀川の間にある笠舞段丘の人から見れば、亀坂は確かに上である。上ではあるが、笠舞周辺の坂の下に生まれ育った女性(83)はその名を知らないという。坂の西にあたる石引の男性(88)も、東にあたる小立野3丁目の男性(68)も「初めて耳にした」と口をそろえる。亀坂上の周りの人たちは「亀坂上」をほとんど知らない。範囲は限定的なのである。上田氏自身、旧湯涌街道は山側から城側へ緩く下がっているので「上」と思ったことは一度もない。

「小立野亀坂頭酒屋前」


「亀坂頭」から見る亀坂

「亀坂頭」から見る亀坂


一名二坂」である亀坂の範囲は延長約64m(大正期刊行の『稿本金沢市史・市街編第一』による)。谷の深さは目視で推定8mである。では、亀坂上に対する山側の、石を引き下ろした地点はどう呼ばれたのだろう。先の石引き道報告書を見ると、文化7年(1810)以降に書かれた加賀藩穴生方後藤家文書『戸室山初年号等(はじまりねんごうなど)留帳』(玉川図書館近世史料館蔵)に「亀坂頭」とある。下ろし杭(地車が下り坂へさしかかったときブレーキの綱をひっかける杭木)の設置ポイントが「小立野亀坂頭酒屋前」なのである。造り酒屋「辰巳屋」があった地点を示しており、前後に記されてある「茶ノ木原」(若松町)「尻垂坂」(兼六町)などから小名の一つとみていいだろう。

留帳に「亀坂上」は出てこない。藩政期の「亀坂頭」と、石を引くことがなくなる明治期以降に使われたであろう「亀坂上」は併存することはなかった。個別に語り継がれてきた呼び名であり、同じ土俵で論じるわけにはゆかない。泡のように“揺れ”(中村氏)、消えつつある小名である。亀坂「上」には石を下ろし引き上げた順路としての上、お城側だから上という状況的側面だけでなく、街の成り立ちという本質的な意味合いが込められているのではないか。小名は聞き出してこそ姿を現す。全国的な一斉かつ迅速な調査が求められる。こつこつ積み重ねられている研究者の努力に待つだけでは、なお「百年河清を俟(ま)つ」ことになる。


亀坂経過年表

西暦年号経過備考
1583天正11利家、金沢城に入る
1593文禄2戸室石を切り出す一日1,000人が従事。2-5日がかり
1696元禄9文献に「石引」の名
1805文化2線香場操業
1810~文化7~小立野亀坂頭酒屋前戸室山初年号等(はじまりねんごうなど)留帳
1839天保9辰巳屋小兵衛の名三都古今取組商人玉集
1913大正2谷を埋め、急坂に深さ不明
1930昭和5都市計画
1959昭和34小立野通り部分開通当初は「新道」と呼ばれる
1967昭和42市電廃止
1972昭和47埋め立て。立体交差現状
1989平成元小立野通り全面開通

あわせて読みたい

暗ん坂とショウズ - 笠舞のくらがり坂 異聞

暗ん坂とショウズ - 笠舞のくらがり坂 異聞

笠舞に、主計町(かずえまち)のものとは趣を異にするもう一つの「くらがり坂」がある。地元の人が親しみを込めて呼ぶ「暗ん坂」に、なんとはない、梅雨空を吹っ飛ばすカラッとしたものを感じる。

コラムを読む

地勢と坂の名 ― 金沢の坂道に見るずれ

地勢と坂の名 ― 金沢の坂道に見るずれ

坂の名の由来には地勢と関わっているものが多い。坂の語源が「境」にあるとすれば自然なことと言える。ただ、地勢の変化に坂名が伴わず、ずれが生じているものもある。金沢の坂道に、坂と人が織りなす合縁奇縁を見る。

コラムを読む

亀坂周辺を歩く-その2 線香坂・鶯坂

亀坂周辺を歩く-その2 線香坂・鶯坂

亀坂の周辺には、新しい道が開通して、そのために消えてしまった坂がある。一方で、観光とは無縁の、日々の暮らしに欠かせない坂、街並みに合わせた新しい坂がある。どっこい生きていた、線香坂と鶯坂―。

コラムを読む

亀坂周辺を歩く-その1 御小屋坂はどこだ

亀坂周辺を歩く-その1 御小屋坂はどこだ

亀坂付近を歩いていて、いろんな坂に出くわした。御小屋坂はその一つ。ただ、亀坂と連結している点で、筆者にとっては大発見のことがわかった。御小屋坂は本来、亀坂と直結していた―。

コラムを読む

亀坂は90°方向転換した

亀坂は90°方向転換した

亀坂は小立野台から笠舞へ下りる坂だとばかり思っていた。それにしても、築城のための戸室石をなんで笠舞まで下ろし、また引き上げたのか。台地上の旧湯涌街道をそのままくればよかったのに…。

コラムを読む

フリーペーパー『RINNGO』最新号の特集内に金沢の坂道を取り上げた経緯を編集部の3人にお聞きしてきた。

フリーペーパー『RINNGO』最新号の特集内に金沢の坂道を取り上げた経緯を編集部の3人にお聞きしてきた。

金沢美術工芸大学の学生有志により発刊しているフリーペーパー『RINNGO』、最新号では特集内に金沢の坂道が取り上げられている。編集部の3人に最新号のテーマ、坂道を取り上げた経緯をお聞きしてきた。

コラムを読む