金沢の坂道コラム

暗ん坂とショウズ - 笠舞のくらがり坂 異聞

真の暗闇というのをご存じだろうか。頭上を覆う木々が夜空のぼんやりした灯りさえも遮っている。手探りで、勘を頼りに歩く―。南加賀で山歩き中、判断の誤りから帰りが遅くなった。足元の見えるうちにと急いだが、麓へ下りたときには日はとっぷりと暮れていた。林の中に止めてある車までたどり着きたい。昼間見た光景を思い出しながら、宙を漂う…。

笠舞暗ん坂(笠舞本町2丁目・城南2丁目の境界)、またの名を笠舞のくらがり坂という。後者のほうが一般的なのだろうが、地元にそう呼ぶ人もいるということで敢えて「クラン坂」を使う。語感がいいし気っ風もいい。昭和の中頃まで雑木林と竹林に囲まれていたこの坂。同じ「暗がり坂」でも、お茶屋へ通じていて人目につかなければそれでよかったどこかの坂とは少々趣が違う。


石垣と坂上の樹木がわずかに”くらがり”の面影を残す

石垣と坂上の樹木がわずかに”くらがり”の面影を残す


ブラックボックス

片町スクランブル交差点を東上する犀川大通りの中ほど、笠舞2丁目交差点から犀川に向かって下りる。笠舞台地の上と下をつなぐ延長約180m。下りたところに清水(しょうず)があり、市が設置した説明板に「笠舞『くらがり坂のショウズ』」とある。笠舞台地は小立野台地と犀川の間にある。坂上を道なりに上ると御小屋坂亀坂、坂下をさらに行くと犀川の河原に出る。小立野台地から犀川まで意外と近い。


坂を下りた右に「くらがり坂のショウズ」がある

坂を下りた右に「くらがり坂のショウズ」がある


くらがり坂に「笠舞の」と冠を付けたのは“大笠舞時代”の名残りだろう。この辺り、藩政期から明治の中頃まで犀川左岸は法島村、右岸一帯は笠舞村と呼ばれていた。どこかの坂と区別したというより、長い段丘上にある笠舞の地域性を強調したと捉えたほうがいいように思う。多くの人はこの坂を避け迂回したという。近道の代償に暗がりがあったからだ。猿丸大夫の笠が風に舞ったという笠舞ならではの雰囲気がある。

「通りかかった武士がキツネにだまされて大声でわめいていた」と金沢市生活文化財調査報告書(1998年)の「暗ん坂の洗い場」にある。まとめたのは郷土史家北島俊朗氏。キツネにつままれるほどのところだった。坂の名は「クランザカ」と発音する人が多かったからだろう。坂下にある清水についても「ハリツケショウズ」と呼ばれた伝承を紹介している。藩政期、磔(はりつけ)される人がここで「末期の水」を飲んだ。ただ、近くに刑場があったとする史料はなく、坂上に広さ2haにも及んだ加賀藩の非人小屋(お救い小屋)があったことからその存在を否定する声も強い。


「ショウズ」説明板に描かれた湧き水のイメージ

「ショウズ」説明板に描かれた湧き水のイメージ


少年時代の記憶


暗ん坂の様子をリアルに描いたブログがある。少年時代にここで遊んだ遥乃陽(はるかのあきら)さんの『diary』(2016年)である。昭和40年代(1965~)に区画整理されるまで、坂は街灯もなく夜は暗黒の世界。「人さらい」がくる、と親から脅かされていた少年にそこはまさに興味津々のブラックボックスだった。友達と二人、犀川の堰(せき)で遊んでいて暗くなったので慌てて帰ったときの記憶―。

月が昇りかけの時刻。疎らな雲の流れが時折り星明かりを隠す中、段丘の影になった暗い道を小川の流れの朧(おぼろ)な光を頼りに戻りました
くらがり坂の清水で足を浸してから、早く帰ろうと坂道を見ると、両脇に茂る木々が夜空を隠して路面は暗闇にぼんやりと仄(ほの)かに見えるだけです

危険が迫ってくる不安と心細さ。二人は泣き叫びながら坂を上り、御小屋坂まで全力で駆けた。せいぜい60年ほど前の話だ。

月明かりも星明かりも通さなかった鬱蒼と茂る木々。「その頃を思わせる巨木が坂に沿って幾本も残っている」とサカロジーが書いて22年が経つ。今、見回してもそのような光景はない。両側に家が建ち、宅地に擁壁が張られている。周辺にわずかに田畑が残り、使われなくなった手押しポンプが置き去りにされたようにたたずんでいる。夏は冷たく冬温かいショウズの水。湯気が立っていた冬場の光景も今はただ想像するしかない。


周辺には今も田や畑が残る

周辺には今も田や畑が残る


運命共同体


昭和30年代(1955~)。「猿丸神社(笠舞3丁目)より上は家がポツンポツンと建つだけで、ほとんど何もなかった。暗がりだらけだった」と坂榮治さん(74)=笠舞本町2丁目=。近所のよしみで「気が向いたとき」に清水の清掃をしている。あのころ、2m近い高さの配管から噴き出す水は「すごい量だった」という。市の報告書はいう。「冬はネギ、夏はゴボウ、ニンジンなどを洗った。スイカ、マクワウリ、戦後の経済統制解除後はビールも冷やした」「ホタルの名所でもあった。流れの下にはタニシやドジョウがいた」。坂さんの脳裏には、周辺農家のおかみさんたちがにぎやかに野菜を洗う光景が焼き付いている。


清水は奥の茂みから流れ落ちる。清掃するのは坂さん

清水は奥の茂みから流れ落ちる。清掃するのは坂さん


1962年(昭和37)、犀川大通り(旧称三口新線)が開通。周辺の宅地化に併せて地下水を汲み上げる融雪装置が取り付けられた。これを機に清水の水量は落ちる。大通り沿いの歩道に雨水浸透桝(ます)を設けるなど手が打たれるが、市街化の大波に飲み込まれてか功を奏していない。洗い場は戦前、人びとがお金を出し合ってコンクリート化し、98年(平成10)には市によりポケットパークにつくり替えられる。暗がりがなくなった坂、ザァザァがチョロチョロになった清水。両者の変わりようは軌を一にしている。


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