金沢の坂道コラム

亀坂周辺を歩く-その1 御小屋坂はどこだ

藩政期、笠舞に「非人小屋」という大規模な生活困窮者のための救済施設があった(※注)。飢饉や風水害などで被災した人びとを救済するうえで大きな役割を果たし、時代に先駆けた藩営の福祉事業は「政治は一加賀、二土佐」と称賛された。小屋に通じる道があり、小立野台・亀坂(小立野3丁目)から下りる坂は「御小屋坂」と呼ばれた。

「亀坂から下る」

まず、はっきりさせておきたい。前号「亀坂は90°方向転換した」で、亀坂は東西に走る旧湯涌街道(県道野田・上野町線)上にあり、これと直角に交差する南北道を「いわゆる亀坂」と書いた。亀坂は坂とわからないくらい緩やかになっており、直近で坂といえば南へ下りる「いわゆる亀坂」しかないのが実状である。加えて、この地以外の人の多くは「いわゆる亀坂」を亀坂と見ている。周辺一帯を亀坂と称したからではないか、と聞けば「そうなのか」とも思った。だが、ちょっと待った。ここで妥協してはいけない。仮称「いわゆる亀坂」に名前がないのはなんとしても不自然である。

結論を急ぐ。「いわゆる亀坂」は御小屋坂である。郷土史家園崎善一氏が『小立野校下の歴史』の中で、「亀坂から下る」とし「隧道(筆者注:亀坂地下道)から東南への坂道である」と書いている。2004年(平成16)に亡くなった氏の意見を聴くことができないのは残念だが、文意は読み取ったつもりである。絵図『加陽金府武士町細見図』(1734年=享保19=、別掲)を見てもそう読める。金澤古蹟志など地誌の記述と矛盾せず、むしろこの方が分かりやすい。亀坂に直接、御小屋坂はつながっていた。「いわゆる亀坂」という呼称は不要なのだ。


亀坂から下って、小さな広見で左折する

亀坂から下って、小さな広見で左折する


亀坂から小屋(右下)につづく道(加陽金府武士町細見図より)

亀坂から小屋(右下)につづく道(加陽金府武士町細見図より)


「東南へ」


地誌には「亀坂の中程から」「亀坂の坂中より」-「一本松に下る坂道」と紹介されている。初見参の筆者は、まずは探すことにした。亀坂自体そんなに長い坂ではない。すぐに見つかるだろうと思っていた。だが、分岐する緩やかな坂は何本かあって、コレといった決め手がない。思い余って尋ねた笠松秀則さん(59)=笠舞2丁目、会社員=が「自分も勉強になるから」と案内を買って出てくれた。


笠舞へ緩やかに下りる

笠舞へ緩やかに下りる


数人に尋ねたが、知る人はない。改めて持参した資料に目を通す。唯一『小立野校下の歴史』が「東南へ」と方角を示している。「あ、それなら」と笠松さん。回りまわって来た道を引き返す。この時点で筆者の中ではまだ「いわゆる亀坂」の、ほとんど下り口に幅1m余の小路が1本あった。狭いうえに勾配も緩やか。「これじゃあ、わからないなぁ」。己のうかつさを笑ってごまかす。笠松さんは100mほど行った先の坂の終点で「この交差点を右(南西方向)へカーブすれば旧の一本松町です」と教えてくれ、大任を果たしたような表情で去って行った。

ひっそり物静か

「一本松に下る」という部分に惑わされてしまった。旧一本松町(笠舞3丁目・石引2丁目)は亀坂からは南西の方角だと思い込んでいた。間に小立野・笠舞線=1988年(昭和63)開通=ができて旧町は分断されていた。亀の尾の記には、一本松は「路細長く、亀坂手前の坂風呂屋の横へいづるなり」とあり、崖地の裾を縫う片側町(一方町)の旧一本松町が亀坂付近まで延びていたことを、これまたうかつにも知らなかった。

ようやく出会えた御小屋坂。そのたたずまいは、辿り着く先の施設に収容された人びとの苦難の来し方を代弁してかひっそりと物静かだった。「昔とあまり変わっていない」と中島玉榮さん(79)=石引1丁目=は言う。ただ、今は家屋が立ち並ぶ両側はかつて、片や滲み出る清水(しょうず)で濡れた崖、片や田んぼという町のはずれの田舎道だった。道幅の半分を占める川は暗渠になっており、面白さ半分、怖さ半分、そこで遊んだ。暗渠の中は小さな女の子が入れるくらいの広さがあった。


半分を用水(現在は暗渠)が占めている。幅は1-2m

半分を用水(現在は暗渠)が占めている。幅は1-2m


時代を先取りした福祉


川は辰巳用水の分流。珠姫の寺・天徳院(小立野4丁目)の環濠から来て、亀坂を流れ落ち勘太郎川へ注いだ。途中に水門があり、ここを閉じて非人小屋の生活用水を確保した。小屋は約2万㎡(6,000坪)に45棟の規模で建設された。飢饉時、借金返済・年貢上納のため、鍬・鎌などの諸道具、種籾、家、土地、あるいは二男三男の労働力が売りに出された。妻や娘を奉公人に出した。それでも収拾のつかない人が駆け込んだ。救貧・窮民施設、人的資源の再生施設である一方、身寄りのないお年寄りをも入所させる、時代を先取りした社会福祉施設だった。川は小屋という小宇宙の命の源だった。


生活用水を確保するため、水門㊨で流れをせき止め、左(暗渠部分)へ流した

生活用水を確保するため、水門㊨で流れをせき止め、左(暗渠部分)へ流した


周囲は閑静な住宅街に変容した。跡地付近に笠松さんの父と兄らも参加して再建された笠舞地蔵尊のお堂がある。由来書に「自領民のみならず、他国他領の者、旅行中発病した者まで収容され保護されました。(中略)頼る者も弔ってくれる人もいない方々の霊を供養するために村人たちはここにお地蔵さんを安置して冥福をお祈りしたのです」とある。


笠舞地蔵尊

笠舞地蔵尊


※注 1670年(寛文10)加賀藩5代藩主前田綱紀が創設した困窮者のための収容・加療施設。「非人」は当時、この時代の身分名称とは別に、困窮者一般、または飢饉で浮浪する人をも指した。後に「御救(おすくい)小屋」と改称する。収容は2,000人(当初推定値)。最大時で4,964人を数えた。1868年(明治元)卯辰山へ移り「撫育所」(養生所の付属施設)と改称。71年(明治4)廃藩とともに200年の歴史の幕を閉じる。


<参考資料>

  • 『加賀藩救恤考-非人小屋の成立と限界』丸本由美子 桂書房 2016
  • 『小立野校下の歴史』園崎善一 2001
  • 『加賀泣き伝説の行方を訪ねて-真宗移民と北海道開拓者』池端大二 文芸社 2012

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