地勢の変化と坂の名 ― 「坂道出典年表」改訂Ⅱ
坂の名の由来のなかに、時代を切り取る出来事でありながら、人びとの脳裏から消え去ろうとしているものがある。変わる地勢と変わらぬ坂の名。再改訂にあたり、これまでに掲載したなかから3つの例を要約して再掲する。
その1 W坂はもっと上にあった
W坂は幕末期に寺町段丘に切り開かれた「新坂」で、もともとは現在地より30mばかり上がったところにあった。石伐職人の住んだ旧石伐町(寺町3丁目)、そこから犀川へ下りる「吹屋坂」がW坂の先代で、坂の形は「ダブル」でも「くの字」でもなかった。

延宝金沢図に描かれた石伐町(「金澤古蹟志」より)
金澤古蹟志の著者・森田平次が延宝金沢図から書き写したとみられる掲出の地図を見ていただきたい。泉野寺町(寺町通り)から本因寺の東側小路を入って右折、「二十人石伐」が「九人」と「十一人」に分かれて向き合う組地を抜けてまた右折すると、崖を下りる坂道(現在は石段)に出る。これが当時の吹屋坂。慶応元年(1865)、この西側に新坂ができ、同時に寺町通りと新坂をつなぐ桜坂もできた。吹屋坂はこのとき桜坂に分断された。
なぜ新坂がつくられなければならなかったのか。そこに橋ができたからである。橋は渡し舟に代わる有料の一文橋として、当時、吹屋坂下にあった舟着き場から少し下流に架けられた。人びとの足は一文橋に向けられ、にぎわいはそちらへ移る。現在の桜橋辺りである。ここから寺町通りへ直近で上る新たな坂が必要になった。新坂はいつしか吹屋坂と呼ばれるようになり、それまで吹屋坂だった坂は “名無し”になる。今日に至るまで顧みられることはない。
その2 亀坂は名ばかりの坂になってしまった
亀坂(がめざか)を坂と判別するのは難しい。旧湯涌街道(県道野田・上野町線)にあった深さ8mほどもの谷が数次のかさ上げで緩やかになり、しまいには平坦になってしまったからである。このため亀坂と交わる坂を亀坂と思っている人が多い。
湯涌街道は小立野通り(県道金沢・湯涌・福光線)ができるまではメインストリートだった。金沢城の築城のため、戸室山から伐り出した巨岩を運んだ1593年(文禄2)ごろは一帯は深い谷間だった。運搬路約11kmのうちでも最大にして最後の難関とされていた。亀のように斜面に這いつくばって石を引き上げる人足たちの懸命な姿が目に浮かぶ。引き上げ作業の負荷を軽減すべく、道はかさ上げされていく。
車社会はついに谷を埋めてしまう。谷間を削っていた川(辰巳用水の分流)と川沿いの道とはこれをまたいで立体交差し、亀坂は坂とは言えない坂になってしまう。川沿いの道は笠舞に設けられた困窮者のための救護施設に向かう坂として御小屋坂と呼ばれるようになる。川は施設の生活用水として利用される。坂の上に水車を回して線香をつくる線香場ができ、もう一つの小さな坂に線香坂(のちに別名あらま坂)の名を生む。
その3 白山坂・二十人坂は昭和の坂だった
白山坂は「白山(しらやま)」を山号とする波着寺にちなむ白山町、二十人坂は鉄砲足軽二十人組の住む二十人町に由来する。このためか、隣り合う二つの坂はともに藩政時代からある坂とみられがちであった。波着寺は1619年(元和5)の建立、二十人組は1584年(天正12)の発足である。
坂の完成は白山坂が1934年(昭和9)、二十人坂が5年後の39年(同14)である。小立野段丘の南側。道はそれまで崖で行き止まりだった。大陸で勃発した日中戦争(37年7月-45年8月)が段丘の様相を一変させる。小立野段丘に陸軍練兵場ができ、犀川をはさんで対岸の寺町段丘と結ぶ道路が必要になった。第九師団兵営・練兵場との連絡のためである。上は善光寺坂、下は新坂などを経由していたこれまでの時間的ロスは、戦況に照らして緊急に解消する必要があった。
車社会となり、坂は一方通行で役割分担する。寺町へは、白山坂を下り上菊橋を渡って不老坂を上る。寺町からは、長良坂を下り下菊橋を渡って二十人坂を上る。新住居表示で二つの坂の所在地はともに石引2丁目になる。
