坂に人あり70坂 ―「坂道出典年表」改訂Ⅳ<最終回>

壺中人コラムを連載して丸6年経った。取り上げた坂は70坂に上った。これを受けたかたちの坂道出典年表には、文中に名前だけ載せたものを加えて75坂を収めることができた。何事も引き際が大事という。切りのいいこの辺で筆を擱(お)くことにした。長らくのご愛読に感謝しつつ―。
坂道出典年表は、2016年におぼろげなものを掲げて以降、4回改訂した。掲載は5回に及んだ。身勝手な試みに付き合っていただき、ただ恐縮している。坂学会の真似をして自分なりにつくったものであり、一つの目安ととらえていただければ幸いである。備考は「坂」を考えるときの端緒に、とメモしたものである。
『壺中日月長』
「コラム、書いてみないか」と『金沢の坂道』オーナーのいちがみトモロヲから声がかかったのは2015年。正月が明けたばかりのころだった。熾火(おきび)のようにくすぶっていた「書きたい」願望に火が着いた。書けるかもしれないという思いが「書きたい」に変わるまでそれほど時間はかからなかった。記者時代に書いた文のもろもろには多かれ少なかれ制約があった。こんどは好きなように書けるかもしれない。オーナーが息子だという気安さもあった。
小宅の壁に書家沈強(しん・きょう)氏の『壺中日月長(こちゅうじつげつながし)』の彩墨書が懸かっている。酒壺に浸っていれば一日はゆったり思うように流れてゆく―禅語をそう解釈しているわたしは「これで行こう」と思った。先行き何も考えず白紙で臨もう。筆名は小宅「壷中居」からとって「壺中人」とした。
初めのころの「書いた人」に「坂から何を学ぼうか」と書いている。少しばかりの意欲もあったのだ。記者としての経験上、文に「人」を絡めるのを必須とした。文が生きてくると考えたからだ。副題に「坂に人あり歴史あり」と入れた。取り上げる坂は一つの坂を書き終えるごとに、ほとんど気の向くままに決めていった。できる限りの資料集めと対面取材を心がけた。そんな試行錯誤が6年つづいた。
心残りの坂々
一般的に名のある坂のほとんどを網羅できたと思う。無名の坂や名の消えかかった坂、その時点で名がなかったものもある。年表では、年号(時代)を出典より重く見たことは否めない。坂道がいつごろできたかという出現時期のほうが大事と考えた。年号が出典と合わないのが一部にあるのはそのせいである。弁慶坂は取材時に閉ざされていたため取り上げなかった。瓶割坂に弁慶はつきものとの倣いからすれば入れるべきだったか。サカロジスト国本昭二氏が名付けた坂が3つもある。反省点はいくらもある。
年表に入っていない坂も多くある。本文中に名前だけ書いたものも含めて、史資料からない交ぜに拾うと、飴屋坂、つばや坂、石坂、姥(ばば)坂、八矢坂、母衣町坂、涌波坂、八幡坂、たて坂、牛首坂、新坂、中坂、大滝坂、油木坂、砂子坂、九十階段、安藤坂、小便坂、幽霊坂…。都市計画でつくられた新桜坂、新長良坂、旭坂、並行してできたトンネルに名前を奪われた恰好の小立野トンネル…。杜の里開発で生まれた“里坂”百合の木坂、鈴懸坂、楡の木坂。etc。
江戸東京の坂について『坂出典年表』(2005年)をまとめた記録作家俵元昭氏が言う「坂名も水道などのような都市のインフラストラクチャ(ライフラインにも似た都市生活の必要構成要素)であり、民生生活からいうと幕府の市街行政の欠陥の住民側からの自発的補完である」とのレベルには達しなかった。金沢の坂の名に自発的補完という意志性が感じられなかったということである。散逸的にあったにしても全体としてまとまりがなかった。それにも増して、金沢の場合は話題性に富んだものが多かった。地域の人が地域の話題からとって坂に名を付けた。ほとんどと言っていいくらいである。都市の成り立ちの相違によるのだろう。
不遜のままに
金沢に坂道はいくつあるのだろう。国本氏の『サカロジー』が取り上げたのは56坂である。少ないところで稿本金沢市史の15坂、温知叢誌の44坂、多いところで坂学会会員がサカロジー後に調べた77坂(NPO法人「江戸連」機関誌所載)、筆者の“坂友”Y氏が写真に収めた100坂、県立盲学校の薫くん(2016年当時中3)が先生とともに歩いた101坂などがある。変動するものではあるが、これらの数字から名のある坂は自ずと割り出されると思う。斜面緑地として市が管理している坂を含め、無名の坂にも魅かれるものがあった。
番外として、出張編で無言坂(富山) 団子坂(東京) うみなり坂(能登)の3坂を訪れた。坂道がどのように歌われてきたかを探ってみた『「坂」と歌謡曲-当世スロープソング事情』も6回掲載できた。いくつかの「独自ダネ」をものにできた。時の流れを痩身に感じ、そのたびに勝手に感動に浸った。多くの人にお世話になった。多くのことを教えていただき、わが身に収まりきらないときもあった。坂学会の知遇を得たことは身に余ることであった。
出張編として取り組んでみたい坂はいくつかあった。越中坂(津幡町)、だんな坂(羽咋市)、バンタン坂(志賀町-七尾市)、富山で尻垂坂(富山市)、福井でのこぎり坂(あわら市)、根来(ねごり)坂(小浜市)など。名前を聞いただけで行ってみたくなる坂、国境の歴史を刻んでいるであろう坂のもろもろが気になっている。これらを網羅できれば風土や人びとの暮らしまでがほの見えてくるのではないか、そんな不遜な思いを抱いたりもしたものである。一会再見!
坂道出典年表
西暦 | 年号 | 坂名 | 所在地 | 出典 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1187 | 文治3 | 瓶割坂 | 犀川大橋-野町 | 三州名蹟志 | 義経奥州下り伝説と伝承 |
1574 | 天正2 | 枯木橋坂 | 橋場町 | 三州寺号帳 | 元亀・天正の争乱で枯木林となる |
1580 | 天正8 | 甚右衛門坂 | 金沢城 | 三州志来因概覧附録 | 一揆方の浪士平野甚右衛門が奮戦、討死 |
1580-83 | 天正8-11 | 軍道坂 | 湯谷原町 | 戸室山初年号等留帳 | 戸室石引き道の拠点の一つに「ぐんどう」の名 |
~1583 | 藩政前 | こぶらん坂 | 上山町 | 医王山物語(中村健二) | 腓脛坂 腓(こむら・こぶら)と脛(すね) |
1583~ | 藩政初期 | 野坂 | 小立野1丁目 | 戸室山初年号等留帳 | 穴生方(石垣師)後藤家文書 |
1583~ | 藩政初期 | 亀坂 | 小立野3丁目 | 亀の尾の記・加能郷土辞彙 | 「赤坂あり」「是より辰巳等の往来なり」 |
1583~ | 藩政初期 | 家臣坂(仮) | 本多の森 | 本多家下屋敷絵図 | 家中町下屋敷 陣立て1,130人 復元見込みなし |
1584 | 天正12 | 兼六坂 | 兼六町ほか | 加藩国初遺文 | 修理谷→汁谷→尻谷→尻垂坂 |
1595 | 文禄4 | 善光寺坂 | 小立野3丁目 | 郷土史愛好家野上正治著作 | 善光寺坂地蔵尊 |
1596~ | 慶長期 | 土橋坂 | 金沢城 | 加州金沢之城図 | 石川門(搦手=からめて)前 土橋→石川橋 |
1596~ | 慶長期 | 河北坂 | 金沢城 | 加州金沢之城図 | 河北門(実質的な正門)前 土橋坂→河北坂 |
1601 | 慶長6 | 大乗寺坂 | 出羽町-本多町 | 加賀大乗寺史(舘残翁) | 本多家上屋敷辺(高山右近邸地)から下屋敷へ |
1616 | 元和2 | 観音坂 | 東山1丁目 | 観音院由来書(加賀藩史料) | 男坂 4代光高が造成 1909(明治42)に女坂 |
1616 | 元和2 | 香林坊坂 | 香林坊 | 金澤古蹟志 | 香林坊病死の記事。香林坊橋←犀川小橋(支流) |
1635 | 寛永12 | 天神坂 | 天神町1-2丁目 | 金澤古蹟志 | 椿原天満宮(旧田井天神社) |
1637 | 寛永14 | 八坂 | 東兼六町、小将町 | 金澤惣町役付(市中旧記) | 古くからの巷称 ※1 |
1639 | 元禄6 | 小尻谷坂 | 東兼六町、小将町 | 侍帳 | 尻谷・小尻谷の表記 |
1657 | 明暦3 | 梅ヶ枝坂 | 兼六元町 | 木倉屋由緒帳 | 5代目長右衛門 びんつけ油「梅がえ」 |
1658 | 万治元 | 塩硝坂 | 土清水 | 後藤家文書 | 土清水塩硝蔵←五箇山(塩硝の道) |
1662 | 寛文2 | 馬坂 | 扇町-宝町 | 改作所旧記 | 「六曲り坂」が転訛したとも 馬坂新町(地子町) |
1665 | 寛文5 | W坂 | 清川町ほか | 泉野村文書 | 二十人石伐の組地 ※2 |
1667 | 寛文7 | 嫁坂 | 石引4丁目-本多町1丁目 | 寛文七年金沢図 | 「よめの坂」 のち町名「小立野嫁坂」に |
1669 | 寛文9 | 裏門坂 | 宝町ほか | 金澤古蹟志など | 宝円寺大改修で裏口に~永福寺 ※3 |
1670 | 寛文10 | 鶴間坂 | 旭町1-3丁目 | 正保郷帳(「牛坂」として) | 村御印 牛坂→鶴舞谷→鶴間谷坂→鶴間坂 |
1671 | 寛文11 | あめや坂 | 山の上町-森山2丁目 | 咄随筆(森田盛昌) | あめ買い(子育て)幽霊伝説 光覚寺口伝 |
1676 | 延宝4 | 松涛坂 | 兼六園 | 兼六園全史 | 5代綱紀 蓮池庭 |
1679 | 延宝7 | 長良坂 | 清川町-寺町1丁目 | 後藤家文書 | 長柄衆(長柄:ながらとも読む) 上舟渡、吹上 |
1690 | 元禄3 | 広坂 | 本多町 | 變異記 | 作事坂・安房殿坂(本多安房守屋敷) |
1693 | 元禄6 | 紺屋坂 | 兼六園 | 士帳 | こうや坂 |
1693 | 元禄6 | 賢坂 | 小将町、兼六元町 | 侍帳 | 賢坂辻←材木町剣先辻 |
1733 | 享保18 | 蛤坂 | 野町1丁目ほか | 亀の尾の記 | 火災後に道がつく←妙慶寺坂 ※4 |
1734 | 享保19 | 御小屋坂 | 小立野3丁目 | 加陽金府武士町細見図 | 1670(寛文10)創設の困窮者救済施設(小屋) |
1752 | 宝暦2 | つばや坂 | つば甚裏 | 亀の尾の記 | 鍔屋甚兵衛創業 坂名は国本昭二命名 |
1797 | 寛政6 | 随身坂 | 兼六園 | 兼六園歳時記(下郷稔) | 金沢神社の随身像 |
1804~ | 文化・文政期 | 御参詣坂 | 法島町-平和町2丁目 | 金沢城下南部の歴史(新保望) | 前田家墓所への参詣道 |
1805 | 文化2 | 線香坂 | 小立野3-石引2-笠舞2丁目 | 加能郷土辞彙 | 小立野で線香場が操業。別名あらま坂 |
1807 | 文化4 | 槌子坂 | 旧味噌蔵町小前 | 北国奇談巡杖記 | 「なだらかなるあやしき径あり」 |
1818~ | 文政期 | 上坂 | 兼六園 | 竹沢御屋敷総絵図 | 役人往来 |
1830~ | 天保期 | 漏尿坂 | 瓢箪町 | 亀の尾の記 | 夜つ尿→よつばり→夜っ張り |
1854~ | 安政期 | 瞽女坂 | 茨木町 | 安政頃金沢町絵図 | 御前坂とも |
1865 | 慶応元 | 貝割坂 | 清川町 | 金澤・野町の四〇〇年(南野弘) | 山錦楼 旧蛤坂新道 |
1867 | 慶応3 | 子来坂 | 子来町 | 卯辰山開拓録 | 14代慶寧 資材運搬路 |
1867 | 慶応3 | 帰厚坂 | 天神橋口 | 卯辰山開拓録 | 「藩主、病院ヲ開キ給ウ厚キ恵ミヲ悦ヒ」 |
1867 | 慶応3 | 千杵坂 | 卯辰天満宮 | 卯辰山開拓録 | 御冥加による「千本搗(づ)き」 |
1867 | 慶応3 | 開基坂 | 卯辰天満宮 | 卯辰山開拓録 | 二ノ坂 開拓手始めの場所 |
1867 | 慶応3 | 表坂 | 末広町 | 卯辰山開拓録 | 養生所跡-花菖蒲園 |
1867 | 慶応3 | 汐見坂 | 卯辰町 | 卯辰山開拓録 | 「一本松春日山へゆく道」 |
1867 | 慶応3 | 常盤坂 | 常盤町 | 金澤古蹟志 | 卯辰山開拓時に新たに町立て |
~1868 | 藩政後期 | 天狗坂 | 茨木町 | 金澤古蹟志 | 本多家下屋敷地境に番所・柵(しがらみ)門 |
1868~ | 明治初 | 長谷坂 | 兼六園 | 兼六園全史など | 2代金沢市長・長谷川準也 |
1868~ | 明治初 | 真弓坂 | 兼六園 | 兼六園全史 | 高台の物見所 崩して坂に |
1868~ | 明治初 | 桂坂 | 兼六園 | 兼六園全史 | 桂の古木(開設以前より) |
1868~ | 明治初 | 不老坂 | 兼六園 | 兼六園全史 | 不老樹フジ 常磐岡 |
1871 | 明治4 | 不老坂 | 法島町-十一屋町 | 戸籍編成 | 法島湯にちなみ風呂坂とも。坂上に祇陀寺 |
1892 | 明治25 | 桜坂 | 清川町 | 市史年表「金沢の百年」 | 拡張を機に命名 ※5 |
1896 | 明治29 | 爪先上り | 下新町 | 照葉狂言(泉鏡花) | 「わがゐたる町は一筋細長く…」 |
1910 | 明治43 | 下坂 | 兼六園 | 兼六園案内図 | 百間堀通り開通 |
1915 | 大正4 | 獅子帰坂 | 東御影町 | 卯辰山と浅野川(平澤一) | 三社の杜-玉兎ヶ丘 |
1920 | 大正9 | 暗がり坂 | 主計町 | 榲桲に目鼻のつく話(泉鏡花) | 「暗闇(くらがり)坂を下りると-」 |
1923 | 大正12 | 児安坂 | 大樋町 | 金沢三中・桜丘高校五十年史 | 三中創立の2年後、児安ヶ丘の現在地に新築移転 |
1932 | 昭和7 | 木曽坂 | 宝町-扇町 | 小立野婦人学級61年度文集 | 裏門坂のバイパス 失対事業 |
1932 | 昭和7 | 大林区の坂 | 野町と弥生の境 | 金澤・野町の四〇〇年 | 旧南端国道(南大通り)開通に合わせ |
1934 | 昭和9 | 白山坂 | 石引2丁目 | 小立野校下の歴史(園崎善一) | 波着寺は1619(元和5)現兼六園から白山町へ |
1939 | 昭和14 | 二十人坂 | 石引2丁目 | 金澤古蹟志・小立野校下の歴史 | 旧二十人町は1584(天正12)鉄砲足軽の組地に |
1945~ | 戦後 | 鶯坂 | 小立野3丁目 | サカロジー-金沢の坂 | 笠舞の住宅地化に伴う |
~1945 | 戦前 | 本覚坂 | 野町3丁目 | 金澤・野町の四〇〇年 | 1614(慶長19)本覚寺建立。旧六斗林 |
1991 | 平成3 | かいもち坂 | 東荒屋町 | 金沢大・伝承地名調査第一報 | 中村健二 「かい餅3個と先祖伝来の美田を交換」 |
1998 | 平成10 | 笠舞暗ん坂 | 笠舞本町2丁目・城南2丁目 | 金沢市生活文化財調査報告書 | 報告者 北島俊朗 「笠舞のくらがり坂」の別名 |
1999 | 平成11 | 一本松坂 | 卯辰町 | サカロジー-金沢の坂 | 国本昭二命名。一本松道(道路・往来) |
2001 | 平成13 | 欠原坂 | 石引2丁目 | 小立野校下の歴史 | 園崎善一命名。温知叢誌に「上欠原町坂」 |
2003 | 平成15 | 御転坂 | 東御影町 | 四季こもごも(国本昭二) | 旧御廻(みめぐり)町 |
2010 | 平成22 | あかり坂 | 主計町 | 主計町あかり坂(五木寛之) | 1997(平成9) 国本昭二命名「路地坂」 |
2013 | 平成25 | 美術の小径 | 本多の森 | 本多家上屋鋪御館惣絵図 | 県立美術館↔中村記念美術館 |
2017 | 平成29 | 歴史の小径 | 本多の森 | 本多家上屋鋪御館惣絵図 | (復元)本多家上屋敷↔中屋敷(藩政中期に建設) |
※1 八坂はもと宝幢寺坂。延宝年中社寺来歴に「元和元(1615)家老奥村永福が3代利常の戦勝を祈願」とある
※2 W坂=石伐坂 別名・清立寺坂 明和年間(1764~)以降に移転:寺社由緒書上・吹屋坂 吹屋は鋳物屋。同名の坂が野町-蛤坂上にあり、蛤坂新道でつながる。旧藩時は車馬通行禁制。「防備上ニ関スルナラン」(温知叢誌)
※3 宝円寺は藩祖利家の創建。前田家菩提寺。永福寺は利家家臣奥村伊予守永富(もと末森城代)が建立
※4 蛤坂はもと妙慶寺坂。天明6(1786)の由緒書に「妙慶寺坂とも称した」とある。開基は2代利長家老、松平康定
※5 桜坂は「一名仙人坂ト云ウ」(温知叢誌)。明治31(1898)下石伐町(上流部に隣接して仙人町)-桜畠十番丁に新道。上下で呼称異なる
《金澤古蹟志、絵図など地誌・史資料を参考にした。坂道出現の時期に重きを置いたため、坂名の記載がなくても坂の存在につながるものがあれば可とした:敬称略》