金沢の坂道コラム

国本昭二さんと「サカロジ-」考

『サカロジー-金沢の坂』と『四季こもごも-金沢の街と坂と卯辰山-』

『サカロジー-金沢の坂』と『四季こもごも-金沢の街と坂と卯辰山-』


いまや「坂道学」の代名詞ともなった「サカロジー」は、『月刊おあしす』(月刊おあしす編集室編)に『サカロジー―起伏が織りなす金沢という町・人・風俗の物語』のタイトルで掲載されたエッセイからきている。「…ロジー(-logy)」は英語で「学問」。日本語の「坂」と組み合わせた著者国本昭二さん(1927-2005)の造語である。

エッセイは56編。1995年(平成7)8月1日号-2000年(同12)3月1日号の4年8カ月にわたりタウン誌の末尾を飾った。掲載から15年たったいま、国本さんが坂に託した思いをなぞってみた。


月刊おあしす編集室はかつてこの喫茶店2Fにあった

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数学者が見つめた「金沢論」

国本さんは、数学を教える身でありながら史料を手に歩き回り、加賀・前田の殿様が小松、大聖寺(現加賀市)を攻めた記録を『山口記を歩く』(1984年泉鏡花記念金沢市民文学賞受賞)に著し、エッセイストとしての道を歩み出す。そう。『サカロジー』は大聖寺出身の国本さんが数学者の目で金沢を見つめた「金沢論」なのである。大藩のかげに隠れ、埋もれていた軍記に日の目を見させたように、ひそやかで自己主張しないものに対するいたわり、いつくしみ、そして励ましの心が取り上げた坂の一つひとつにあふれている。

「坂とは、時代によっても、権力によっても、消すことのできないその町の刻印なのだ」(1996兼六坂)という。「名園・兼六園に上るのにそんな貧乏くさい名前はふさわしくないというので、住民の合意もあって」兼六坂と改名された尻垂坂。だれが改名をそそのかしたかは書かれていないが、「しったれ」(金沢弁で「だらしない」「貧乏くさい」の意)て上る坂がいつの間にか観光の道になり、いつの間にか急坂が緩やかな坂になり電車が通って消えた時の流れを写し出す。坂を通る主役が庶民から観光バスや車に変わって、それでよしとしない国本イズムが顔を出す。

町名変更を叱る

鶯坂は、小立野三丁目から小立野三丁目へおりる坂である。チョットおかしいが、誤植ではない―と、かつては上野町から笠舞へおりる坂の位置が町名で言い表せなくなった不都合を怒る。町名変更(住居表示法改変:1958)を非難する場面は兼六坂小尻谷坂などでも出てくる。「坂とは上と下のちがった小宇宙をつなぐマジックボックスだったはずだ」(1999鶯坂)。それを壊すことは許されない。

国本さんの目は「金沢の町には土地の高低が備える気品がある(といわれる)」と一言で金沢の姿を言い表す。坂道が車に占領されている状況に「歩道は車道路の居候(いそうろう)ではない。(中略)坂の下に立っただけで上ってみたくなるような石段を造ろうではないか」(1998ニ十人坂)と説く。いまに通じる提言である。これら主張に得意の斜度を絡ませ「恋をするなら三度の上り坂、思いに耽(ふ)けるなら七度、プロポーズするなら一〇度の急坂」(1997斜度五度の坂群)と分析してみせたのが「起伏が織りなす」学問サカロジ-といえようか。

時の流れを映す旧名「尻垂坂」

「大尻谷坂」という兼六坂の旧名は『サカロジー』では出てこない。金澤古蹟志は「尻垂坂」の項で別名を汁谷、修理谷、尻谷と記し、江戸中期の享保年間には大修理谷と呼ばれていたことを諸史料から拾い上げている。さらにこの坂道の傍らに小将町へ下る小尻谷という坂があることから「故(ゆえ)に大尻谷とも呼べり。童謡にも大尻谷や小尻谷といへ(え)り」と、大尻谷は小尻谷からきた名であることをほぼ断定的に書いている。「大」より「小」の方が先にあったわけである。

国本さんは『サカロジー』につづいて月刊おあしすに連載された『金沢街かどウオッチング』でこの点を追跡。「尻垂坂、汁垂坂、尻谷坂を追う」(2001)の項で、江戸期を通じて大尻谷坂と呼ばれていた、と『サカロジー』掲載の「兼六坂」にはなかった坂名を補足している。江戸初期に大尻谷坂と呼ばれ、後期になって汁垂坂、尻垂坂などとも称されるようになった。尻を垂らすのではない、小立野の地下水がにじみ出て汁を垂らすのである。

もともとは大尻谷坂であって、水がしみ出ていたために人びとの呼び名が変わった。よくあることと思える。だから、「寄り添うように小尻谷坂がある」と「大」が「小」に先んじていた記述にもなる。どちらが先か。意見の割れるところだろう。藩臣小幡修理の屋敷が近くにあったため、とするのは温知叢誌だ。ともあれ、汁だ、修理だ、尻だ、と言っているうちに尻垂となった徳川260年の悠久の長さだけは実感として伝わってくる。

『ウオッチング』はまた、市民から忘れ去られた坂として「瞽女(ごぜ)坂」(2001)を取り上げている。瞽女は盲目の遊芸女。三味線を奏で、瞽女唄などを唄って門付(かどつけ)をした。北陸電力石川支店の裏辺りに明治-大正のころにあったこの坂が郷土資料に「今或(あるい)は盲女坂と書いて種々の忘誕(ぼうたん=でたらめな説)を付会(ふかい=こじつけ)するが採るに足りぬ」とされていることに国本さんはためいきをつく。ためいきをつきつつ国本さんは「坂はほかにもまだまだあるぞ」と気を取り直す。

人生は長い坂

山本周五郎は『ながい坂』で、「人生は長い坂」と、下層武士阿部小三郎が屈辱感をバネに、成り上がりとそしられながらも懸命にながい坂を上る姿を描いた。『坂の上の雲』の司馬遼太郎は、明治という近代日本の勃興期を生きた時代人の体質を「もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう」と喝破した。タモリは2010年秋放送のNHK「ブラタモリ」で言う。桜田門外ノ変で傷ついた水戸浪士が川下へ逃げる様子を「人間、上がるって難しい。それが地形というもんですよ」。

自然の摂理を超える人間の意欲。国本さんは『サカロジー』最終回の「観音坂女坂」(2000)で「生きることに疲れた人は、坂をのぼらなくなるという」と書いている。それは、万有引力の関係かもしれないが、多分に意欲の問題であるとわたしは思う。とすれば、である。サカロージン(坂老人)たるもの、もうひと踏ん張りしなくてはなるまい。


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