金沢の坂道コラム

昔の小尻谷坂は石段になって残っていた

石段の下半分が昔の小尻谷坂。中段右手へ尻垂坂に向かって延びていた

石段の下半分が昔の小尻谷坂。中段右手へ尻垂坂に向かって延びていた


小尻谷坂(東兼六町)は2つあった。金澤古蹟志に「廃藩後その並びにまた一条の坂路を付け、今は二条の坂路ありて、共に名を小尻谷とは呼べり」と書かれ、加能郷土辞彙にも「明治以後それ(小尻谷坂)と並んで別に坂路を開き、今は二条共に小尻谷と呼んでゐ(い)る」とある。だが現在、坂標のある小尻谷坂のほかに同じ名の坂は見当たらない。明治も遠くなったから様子が変わったと言えばそれまでだが、もう一つの小尻谷坂はどこにあったのだろう。


金沢十九枚御絵図


加賀藩第12代藩主前田斉広(なりなが)が藩士遠藤高璟(たかのり)らに命じてつくった大型城下図「金沢十九枚御絵図」(県立図書館蔵)がある。1828年(文政11)に完成した当時の絵図としては日本一正確なものとされ、道の幅、曲がり角の広さなど忠実に再現されている。急な坂道はその範囲が梯子状の図で示され、勾配を表す三角の印しも付いている。グーグルマップ(航空写真)をこれに並べると、一目瞭然、昔と今の比較ができる。昔の小尻谷坂が浮かび上がってきた(図1)。昔の小尻谷坂は、現在の小尻谷坂と下部で接する石段に姿を変えて、下半分が残っていた。ただし、最大斜度26度のこの坂を小尻谷坂と呼ぶ人は今いない。


(図1ー1)金沢十九枚御絵図

(図1ー1)金沢十九枚御絵図


(図1ー2)グーグルマップ(航空写真)

(図1ー2)グーグルマップ(航空写真)


金沢十九枚御絵図でバーチャル登坂する。石段を上り半ばを過ぎた辺りで右折、少し上って左折、もう一度右折すると尻垂坂に出る。この昔の坂を1号店とすると、現在の小尻谷坂は2号店になる。2号店は交通事情が変わって売り上げが落ちた1号店に替わって、維新を経て新規開店する。坂の途中、行き止まりにあった小幡家は藩内名門の血を引く家系だったようだが、維新のあと屋敷は取り払われ、屋敷裏から尻垂坂に通じていた小径を含めて一本の坂として延長される。1、2号店ともに栄え、通りに面した町は小尻谷町になる。


一名二坂

2つの坂を1つの名で呼ぶことを「一名二坂」という。名付け親はわが国坂学研究の先駆け、横関英一氏(1900‐76)。一石二鳥をもじったものだ。著書『江戸の坂 東京の坂』で取り上げられているのは谷間に向かい合う二つの坂、金沢でいえば亀坂(小立野3丁目)のような坂が多いが、並行して下る坂も例に挙げられている。小尻谷坂は後者の部類に属する。横関氏はこうも言っている。「のちには、その二つの坂のどっちかの一方をのみ呼ぶようになってしまったものもある。そして、無名の坂が一つできるのである」。小尻谷坂がそうならないよう願ってももう遅いようだ。

ところで、2つの小尻谷坂が下りていた尻垂坂。広坂と並んで名園兼六園の外周を成していることから、その名の響きの悪さもあって、最近は兼六坂と呼ぶ人がいる。が、歴史は変えられない。尻垂坂あっての小尻谷坂であることを思えば、なかなか“改名”は難しいだろう。証言者がいつも脇にくっついているのだから。


坂標がある小尻谷坂は明治の坂

坂標がある小尻谷坂は明治の坂


尻谷往来


今はなき昔の小尻谷坂はいつからあったのだろう。金澤古蹟志はこの点、一つの思い違いをやらかしている。延宝金沢図に大尻谷(尻垂坂)の傍らに新坂と呼ばれる坂が描き込まれ、下は小将町に通じていることから「新坂は小尻谷の坂」であり「延宝の頃に新たに付けられたので新坂と呼んだ」というのがそれである。延宝の図が描かれた延宝年間(1673~81)より前の寛文七年金沢図(1660年)にも同じ新坂が描かれていてハテ? となった。同じことは『日本歴史地名大系・石川県の地名』(平凡社)の「小尻谷町」の項の説明にもある。なぜ10年以上も遅らせなければならないのか。


(図2)金澤古蹟志に描かれた挿絵㊨小尻谷坂㊧新坂

(図2)金澤古蹟志に描かれた挿絵㊨小尻谷坂㊧新坂


小尻谷坂と新坂は金澤古蹟志が別項「脇田久兵衛旧邸」に挿絵として描いているとおり別ものである(図2)。新坂は、広坂と尻垂坂(尻谷坂)方面をつなぐ「尻谷往来」の延長で、往来は兼六園ができる以前の武家地と作事所(藩工事事務所)の間を通っていた。現在の兼六園でいうと、広坂側の川口御門跡辺りから尻垂坂側の桜岡料金所辺りへ貫通していた。坂は土手を切り開いてつくられ、後には常福寺(小将町)に通じる参道につながるものの、竹沢御殿の建設で尻谷往来とともに通行止め-廃止になる。新坂=昔の小尻谷坂ではないのである。


当時の尻垂坂はその名のもととなったようにかなりの急坂で、金沢十九枚御絵図にも上りで最初の小将町のカーブ地点までは梯子状の図が描かれている。荷車を後押しする押し屋もいた。人間、どんなに勾配がきつくても上るときは上るのである。上った先は坂は緩やかになるが、崖はだんだん高くなる。小尻谷坂も新旧ともに急で、戦時中の食糧難のとき、大八車にダイコンを100本つけて上っても下りるときには後押しのお礼で半分はなくなっていたという逸話が残る。


相撲部屋があった


三角地面跡の西端に付けられた石段。上ると尻垂坂

三角地面跡の西端に付けられた石段。上ると尻垂坂


本題に戻る。昔の小尻谷坂は寛文7年以前からあった。寛文七年金沢図は現存する大型城下図では最古のものとされ、これより以前のことは絵図・史料を駆使しても今のところ不明である。より以前からあったと考えるしかない。新坂の名はうたかたの如く消え、昔の小尻谷坂も路面電車の登場など都市化の波にのまれて大きく姿を変えた。現在の坂で生まれ育った堀内武さん(81)は回顧する。「石段の中ほどから西側に、崖につくられた平らな三角地面が広がっていた。相撲部屋(興行目的か)があり、3人の力士がいた。遊びに行くといつもごちそうしてくれた」。小学校の頃の話だ。三角地面は昔の坂があった部分を均(なら)したものだろう。今はビルに塞がれている。


断片的な情報(史実)をつなぎ合わせるとこうなった-のが本稿である。それは、これまで小尻谷坂が断片的にしか語られてこなかった証のようでもある。「しりたれ」の語源についても今回、さまざまな意見を聴いた。その多様さに驚いたが、それを説明するには紙幅が足りない。代わりに、小尻谷坂についての証言を一つ挙げて締めとする。「坂路屈曲急峻にして、左右武家邸の土塀竹薮樹木陰鬱、昼尚暗き坂なりしが、現時尻垂坂通改修と共に、面目を一新す」(温知叢誌)。



小尻谷坂 略年表

年代元号呼び名出典
1584天正12修理谷坂加賀国初遺文
1654承応3汁谷町国事雑抄
1659万治2(城内の作事所を移築)
1660寛文7新坂寛文七年金沢図
1676延宝4(作事所の跡に蓮池御殿)
1673-81延宝年間新坂延宝金沢図
1693元禄6尻谷坂 小尻谷坂侍帳
1822文政5(兼六園命名 竹沢御殿完成)
1828文政11小尻垂坂金沢十九枚御絵図
1847頃弘化4尻谷 修理尻谷 小尻谷亀の尾の記
1856安政3尻垂坂侍帳
1871頃明治4小尻谷町(戸籍編成)
1899頃明治32尻垂坂 小尻谷坂改修温知叢誌
1919大正8尻垂坂 小尻谷坂改修(路面電車)温知叢誌
1966昭和41小尻谷町→東兼六町(住居表示変更)

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