先人の足音 ― 金沢の町名と坂
「初めに地名があった」
かつて金沢には藩政時代からつづく由緒ある町名が数多くあった。それぞれに町の特徴をつかんでいて、金沢という都市の成り立ちを端的に表していた。ところが、高度経済成長真っただなかの1962-1974年(昭和37-49)、新住居表示制度の実施で三分の一に相当する300余町が消滅する。消えた町名を「旧町名」(本稿ではこれ以前の一部町名も含む)と呼ぶ。
いま、消えたはずの旧町名が町内会の名として残り、交差点やバス停に名残りをとどめている。復活運動や、旧町名・坂道標柱の設置などといった追憶の動きもある。なぜなのか。
地名としての町名や坂名には、町の成り立ちのほかに、行き先を分かりやすくする道しるべ(標)の役割があった。行ったり来たり、上ったり下りたりするなかで、人びとは結びつき、連帯していまにつながってきた。「初めに地名があった」(『まぼろしの村々』室井浩一、2012)のである。
その自然発生的な名前のつけ方には、先人の足音が感じられる。町名と坂名の関わり方のなかに、それを確かめてみた。
<「坂道出典年表」をもとに関わりあるものを年代順にピックアップ(項目別)。カッコ内は現町名。数字は新住居表示制度施行時>
坂の名が町名になった
①尻垂坂通(兼六町、兼六元町、大手町、丸の内)1964.4.1
兼六園の外周・尻垂坂(兼六坂)に沿う。新政府が統治体制を確立するため戸籍編成を行った明治4年(1871)ごろ町立てされた。坂上から大手前の通りに達する1-3丁目があった。尻垂坂は昭和33年に「兼六通」と改称され、39年には「兼六町」になる。
②八坂町(東兼六町、小将町)1966.2.1
永福寺(ようふくじ)前の小さな坂を八坂といい、樵道が何本もあったことから一帯を八坂と総称した。台地の突端に宝幢寺(ほうどうじ)が建ち、門前の坂が宝幢寺坂になる。のち寺は奥村伊予守の邸地となって移転。坂は寺がなくなったため八坂と呼ばれるようになる。
③小尻谷町(東兼六町)1966.2.1
西の尻垂坂から東へ向かい湾曲しながら南の八坂に至る坂を小尻谷坂と呼んだ。尻垂坂は古くは尻谷坂といいその小型ととれるが、延宝町絵図には新坂とあり、尻垂坂に対して新しい坂との意味合いがあった。明治4年ごろ、小将町南端部が一町として町立てされる。
④馬坂新町(宝町)1964.4.1
元禄9年(1698)の地子町肝煎裁許附にその名が見える。木曽谷の渓谷に阻まれた地域だったが、宝円寺の門前整備に伴い小立野台地につながる。明治に入って下百々女木町に編入。
⑤牛坂村(小立野2丁目、旭町1-3丁目)1976.5.1
慶長9年(1604)十村(とむら)統括下の鞍月組の一村として村名「牛坂」がある。牛坂は鶴間坂と名を変え、村名は崎浦村牛坂地区となって消える。昭和11年(1936)金沢市に編入され旭町に。
⑥嫁坂町(石引4丁目)1964.4.1
本多家家中町(かっちゅうまち)下屋敷につづく嫁坂に沿う。寛文11年(1671)の文書に「小立野嫁坂」の名がある。元禄9年(1696)には「小立野嫁坂町」、文化8年(1811)の金沢町絵図名帳では「嫁坂町」に。明治4年、中欠原(なかがけはら)町となる。北側の大乗寺坂は未整備だったとみられる。
⑦新坂町(石引2・4丁目、本多町1丁目)1964.4.1
嫁坂の東側に新しく造られたので新坂の名がついた。小尻谷坂のように併称ではなく、新しい坂としては当初から独立した名だった。小立野新坂、笠舞新坂と呼ばれた時期もある。嫁坂との中間には中坂があり、明治4年まで中坂町があってのち中欠原町になり坂は新坂に統合されている。
⑧蛤坂町(寺町5丁目、野町1丁目)1967.9.1
享保18年(1733)の大火のあと新しく道路を造成したため「焼けた蛤が口を開けたよう」と名づけられた。それまでは坂上に現存する妙慶寺からとって妙慶寺坂であった。明治4年、蛤坂町となった。温知叢誌に「坂頭ノ眺望絶佳金沢第一ナリ」とある。
⑨木曽町(東兼六町、扇町)1966.2.1
百々女木(どどめき)橋から材木町へ出る谷あいの町だった。渓流と周りの風致が信州の木曽路に似ていることから、坂は木曽坂と呼ばれ、坂に沿ってできた町にこの名がついた。明治4年、正式名となる。
<現町名として残るもの>
⑩広坂
旧町名にはならなかった。通称「広坂通り」を経て現在の「広坂1-2丁目」に。道幅が広かったためそう呼ばれたが、明治の中ごろまでは作事坂、安房殿坂といった。
⑪子来(こらい)町
住居表示の洗礼を受けなかった。子来(こぎ)坂で東山1丁目につながる。坂は慶応3年(1867)、卯辰山が開拓されたときにできた。東側の帰厚坂より早かった。
<関係するものとして>
⑫上野町(小立野3丁目)1964.4.1
もと石川郡上野村の村地で、馬や牛が通る坂の上の野原であったことから名づけられた。
⑬三間道(野町1・3丁目)1967.9.1
三軒道とも書いた。泉野台からのゆったりした坂に家が3軒あったことによる。
町の名が坂名になった
①二十人町(石引2丁目)1964.4.1 →二十人坂
藩政のころ、鉄砲足軽20人を住まわせたことから、小立野二十人町、小立野足軽町二十人町などと呼ばれた。明治4年、付近の町を加えて二十人町となった。1~5番丁があった。
②長良町(寺町1丁目)1963.6.1 →長良坂
長柄衆の住宅(足軽屋敷)が建てられていたことによる。長柄衆は藩主の行列に携える長柄槍を持つ人のことで、明治4年、町になった。「ながら」とも読んだことから「長良」に。
③桜畠(寺町1-3丁目)1963.6.1 →桜坂(仙人坂)
城からの眺めのために、台地の一帯に桜が植えられていたことによるといわれている。桜のほかに柿、栗、ブドウ、椿なども植えられていた。古くは泉野村の荒地であった。
④仙人町(清川町)1964.4.1 →仙人坂(桜坂)
明治3年の町立て。旧町名の由来は不詳だが、「こんな荒れたところに住むのは仙人しかいない」といわれたことからとも。「仙人町→仙人坂=桜坂←桜畠」の1坂2名の構図となり、坂の上下(桜畠、仙人町は併存)で呼び方が異なっていた。
<現町名として残るもの>
⑤石伐町→石伐(W)坂
石伐町が分町。上石伐町は清川町になったが、下石切町は残った。戸室山から石を伐り出す藩の石伐職人20人の組地があったことによると伝えられる。
⑥常盤町→常盤坂
卯辰山開拓概図に細々とした延長約500mの坂道が描かれている。ふもとの粒谷町が常盤の滝にちなんで常盤町になり、無名の坂に名がつく。
<関係(寺社に由来)するものとして>
- 善光寺坂(小立野3丁目-笠舞1丁目) 善光寺坂地蔵尊を祀る。寺の存否は不明
- 白山坂(石引1丁目-笠舞2・3丁目) 山号「白山(しらやま)」波着寺の門前の坂
- 大乗寺坂(本多町-出羽町) 藩老本多家の菩提寺大乗寺(現在は長坂町)があった
- 観音坂(観音町1丁目-観音町3丁目-東御影町) 藩の祈願寺(安産)観音院がある
- 天神坂(天神町1丁目-小立野5丁目) 椿原天満宮の前身・田井天神社にちなむ
- 裏門坂(宝町-扇町) 藩祖利家建立の宝円寺のもと正門。のち正門は馬坂口へ移る
- 旧名としては、宝幢寺坂(八坂)、清立寺坂(石伐坂)、妙慶寺坂(蛤坂)などがある