坂道出典年表をつくる
中2のときにつくった歴史年表が手もとにある。60年も前のものだから、つぎ合わせた西洋紙(和紙のゴツゴツに対しスベスベの紙。当時はそう呼んだ)は変色してボロボロだ。歴史上の人物の似顔絵が描き込まれている。漫画家志望だったから絵は好きだった。この辺りから歴史好きになったような気がする。
【追記】2017年1月30日 坂道出典年表 改訂版を公開しました。
中世以前に坂に名はなかった
HP『金沢の坂道』にコラムを書き始めて一年が過ぎた。坂と人との関わりについていろいろ書いてきたが、ここへ来て、それは一体いつごろから始まったものなのだろうと考えるようになった。坂は地球の皴(しわ)という。とすれば、人類発祥以前に坂はあったことになる。それも相当、前からだ。人は坂を上り、坂を下りて生きてきた。
ところが、斯道の権威・俵元昭氏(東京地縁社会史研究所理事長)によると、東京の坂に名前が付けられた時期、つまり坂名が誕生したのは近世に入って、それも17世紀後半からだという。東京は徳川家康が入る中世までは小集落とわずかな道しかなかった。ことしは家康がこの世を去って401年目である。人と坂のつきあいは、人類の歴史のなかではそれほど長いわけではない。
永井荷風は『日和下駄』(1915)に「坂はすなわち平地に生じた波瀾(はらん)である」と書く。ひたひたと寄せてきた波瀾が今日、われわれに見せるのは眺望だ。戦後しばらく、金沢で過ごした宮本三郎画伯は「土地の高低が備える気品」と金沢の街の魅力を評している。縦の系譜である「波瀾」と横の展開である「眺望」を結ぶものはなにか。年表だ。坂の名前に関する記述が、文献に初めて出てきたのはいつか―。坂名の初出をたどれば当時の様相が分かるかもしれない。初出をつなぐことで時の流れが見えてくるかもしれない。年表づくりはものごとに興味を持つときのスタートだ。
坂名はインフラの一つ
「それは一口にいうと坂名も水道などのような都市のインフラストラクチャー(ライフラインにも似た都市生活の必要構成要素)であり、民生生活からいうと幕府の市街行政の欠陥の、住民側からの自発的補完であるということだった」。絵図や多様な史料から坂名の初出を求め、自らも年表をつくるなかで俵氏は説いている。町名のなかったころ、道標の役割を果たしたのは坂だった。橋であり、寺社でもあった。だから「坂名のできてゆく順序には必然性と法則性がある」という。金沢の坂で探り当てられれば、それに越したことはない。
坂道出典年表
金沢の坂道の全体像をつかむよすがとして「坂道出典年表」を作成しました。まだまだ未完です。同好の士のご指摘・ご叱責をいただき、よりよいものに仕上げていきたいと考えています。
