金沢の坂道コラム

卯辰山十一坂

善政の“きらめき”

最近、聞かれなくなった言葉の一つに「善政」がある。それに値するものがないからか、周り中が善政に満ちあふれていて気付かないだけなのか―。

江戸末期、卯辰山に一瞬の輝きがあった。お宮(神社)と養生所(病院)を中心に、芝居小屋や寄席、茶屋、さらには大浴場、馬場、物産集会所など福祉・娯楽施設が山を覆うように建設された。加賀藩最後の殿様、14代前田慶寧(よしやす)が福沢諭吉の欧州見聞記「西洋事情」に触発されて敢行した卯辰山の開拓。それは、封建の世が最後に垣間見せた善政のきらめきだったといわれている。

きらめきは「ええじゃないか」的熱狂に包まれた。時は幕末。藩の内外に難問山積の折、「藩中の耳目をこの開拓の熱狂に向けさせ、人心の動揺を防ぎ、藩の向かう方向を誤らないようにする」ための方便であったとする見方(郷土史家・和田文次郎)がある。だから、維新の新政府が政権を担うことが確定すると、開拓は廃藩を待たずにさっさと中止された、と。藩が直接に行った工事の期間はわずか1年半である。

一方で、産物を製造する作業所を数多く作っていることは「産業を興す目的もあったことは否定できない」(元金沢大教授・平澤一)という。慶寧の時代、藩の方針は幕府にも討幕側にもつかず、双方に距離を置きつつ「三州割拠・自立割拠」に傾いていた。この立場に立つと「人心の動揺を防ぐ手段としての開拓」であったかもしれないが、「小規模とはいえ産業の育成・振興の必要性があった」ことも見えてくる。

開拓が廃藩につながった、と批判するのは「金澤古蹟志」の森田平次(号・柿園)だ。「臥竜山(卯辰山の別名の一つ)の山状を変え、昔からの風致を一年余りの熱狂的な切り崩しによって失ってしまい、しかも、再び人の訪うことのない寂寞たる昔の山に戻してしまった」と嘆く。民心転換、殖産興業といった面とは趣を異にするが、明治人の嘆きには違いない。

もう一つ、昭和の土木の専門家の怒りを平澤が紹介している。「よく見ると、坂上の樹木の大切な根幹を二本切りとってある。なんとか工夫があったはず。あまりにも慎重を欠いている。(中略)喜びが一遍に憤怒に代わるような真似はやめてほしい」。

人工と天然の兼ね合いのうまくいくとき、卯辰山の風景を愛する人は満足する。善政は一筋縄ではいかない。

いざ、本題へ

前置きが長くなった。本題に取りかかることとする。

卯辰山の開発は148年前の慶応3年(1867)に始まった。1年半後、工事の主体は官から民へ。時代も明治に変わる。しばらくは余熱があったものの、事業は数年で頓挫する。いまの卯辰山公園は大正3年(1914)、金沢市によって再開発され、昭和3年(1928)に工事を終わった。その後もヘルスセンターや水族館、民間病院、施設ができ、緑地公園化が進むなど開発は続いている。

卯辰山に関連する著書は多く、平澤(1925=大正14年生まれ)が自費出版した『卯辰山と浅野川』(1993)のように歴史から現況まで微に入り細をうがったものもある。このうえ、坂を語るには国本昭二(1927=昭和2年生まれ)の『サカロジー-金沢の坂』(2007)があればなんとかなるのではないか。開拓当時といま、そして一昔前を比較しながら歩くのも一興―。そんな思いで東から西へ、卯辰山の11の坂をたどる。




常盤坂(ときわざか)

油谷牧場



古地図に、玉兎ヶ丘(ぎょくとがおか)から常盤町(旧粒谷町)に下りる小道が描かれている。往時の樵道と思われるが、これがこの坂の原形といっていいだろう。約500mの坂道に一本化され、行楽の人びとでにぎわうのは大正7年(1918)、山腹に油谷牧場が設けられてからだ。孟宗(もうそう)の竹林がつづいたつづら折りはいま、一気に100mほどの高度を稼げる緑地に生まれ変わっている。

「崩山」の異名をとる卯辰山。その地質は50万年前に堆積した岩のない柔らかな地層からなる。砂と粘土に小石の混じった地質は崖崩れのもととなり、修復工事は年中行事になった。少しずつ崩れ、数十万年後には山は消滅するという地質学者の説もある。昭和47年(1972)6月、坂に沿って流れる第二常盤川が氾濫した…。詳細は本欄の拙稿「父子4代で守った常盤坂」(4月29日)をご覧いただきたい。


帰厚坂(きこうざか)


プロポーズ



この春、坂学会(東京)の井手のり子さん(事務局長)が、秋の研修旅行である「巡検」の下見に来沢され、縁あって案内した。「プロポーズの坂」。国本がそう表現したこの坂を、井手さんはいくつか案内した坂の中で一番気に入った様子だった。

長さ250m、斜度は10度。テレビ番組のビデオ撮りで、隣を歩く女性アナウンサーに国本が「結婚してくれませんか」とさりげなく言う。彼女は一瞬立ち止まって大息をつきながら笑い出す。そして言う。「こんなにしんどかったら面倒くさくて、つい『はい』と言ってしまいますね。『はい』」。そして、また笑う。

慶寧が開拓に着手するときに造られ「藩主、病院ヲ開キ給ウ厚キ恵ミヲ悦ヒ」(温知叢誌)名付けられた。春、上気した(ように見えた)表情の井手さんの隣を歩いていたのはご主人だ。井手さんがこの坂を気に入った理由は訊きそびれた。


千杵坂(ちきねざか)


千本つき



『卯辰山開拓録』(1869=明治2年刊行)がある。藩営の開拓の監督にあたった内藤清左衛門がのこした。いまは石段になっているこの坂を「12、3歳までの子供(お稚児さん)数百人(中略)手に手にすりこ木を持ち、きやり人の跡より千本つきと唱え」斜面の土を搗き固めながら上った、と書く。杖を手にした子どもたちが木遣の先導で「千本つき、千本つき」と坂をたたく和やかな光景が目に浮かぶ。坂名の由来である。

坂上の「出先の丘」(開拓録)を日暮丘(ひぐらしがおか)という。泉鏡花は「~のおか」と呼ぶ。下方に鏡花の句碑「はゝこひし 夕山桜 峰の松」がある。峰の松はこの丘にある松のことと私は思っている。『照葉狂言』の一節、主人公が恋人の面影を追って千杵坂を上るシーンに「峰の松のある処、日暮の丘にぞ到れる」とある。鏡花の居た下新町からは直線的に丘が見える。ただし、鏡花記念館学芸員によると「諸説ある」。


開基坂(かいきざか)


手始め



千杵坂を上がって左折、卯辰三社へ続く三ノ坂~一ノ坂のうちの二ノ坂をいう。茶臼山(卯辰山の別名の一つ)の険阻な鳶ヶ峰を2段に切り開き、境目の斜面を10間(18.2m)余りも切り落とした。「開拓手始めの場所」(開拓録)だったことから名がついた。「(養生所の)病民守護ノ為」(温知叢誌)山上に卯辰、豊国、愛宕の3神社を置いた。

滝ヶ丘に湧き水の出る泉池があった。いまは水がない。早春、池に架かる橋の上で脳梗塞のため療養していた知人と出会った。以前と変わらぬ様子。「あんたも気ィつけまっし」といわれた。池にはクロサンショウウオがいた(国本)。坂の上、咸泉ヶ丘(かんせんがおか)には野兎がいた(平澤)。筆者は周辺で昨年2月にカモシカ、日を別にして黒ダヌキと遭遇した。いろんなものと出会う。社務所の天井裏にはテンが住む、と猛禽(きん)類の研究家でもある河崎晴夫宮司。文化財の荒廃が進んでいる。

(お断り)三之坂~一之坂は一本の参道なので、二之坂である開基坂に集約しました。


獅子帰坂(ししかえりざか)


神との接点



三社の杜から玉兎ヶ丘につなぐ。「大正4年(1915)、今バスの通っている道路ができるまでは天満宮(卯辰神社)の階段を上ってこの道に出るのが本道であった。それからは裏道」(平澤)になった。江戸時代までの卯辰山は現在の三社の杜辺りまでをいい、「この奥は奥山という意味合いではなかったか」、また「当時は獅子を狛犬とも呼んだ。狛犬は神の使者である。獅子帰坂は神と人間の接点でもあったのか」と国本サカロジー(この項に関しては『四季こもごも-卯辰山の自然-』より)は明快である。山奥に住む獅子はここまで来て折り返した。

坂の途中に日蓮上人の銅像が立つ。銅像は「1918年(大正7)9月26日、台風が日本海にぬけて晴れあがった朝」善妙寺の丘をつきならした台地に運び上げられた。「銅像をふたつにわけて幕でおおい、曳き綱をつけた2台の大八車で引いた」。旗を押し立てたにぎやかな列を『百年のあとさき』(砺波和年、北國新聞社、2013)が活写する。

(付記)温知叢誌には獅子帰坂について「豊国神社の(横から)後ろに下る坂をいう」とあり、範囲を三社の杜内に限定している。坂はその先、上りとなり玉兎ヶ丘につづいている。


御転坂(おまわりざか)


民情視察



末広町の一角の旧名「御廻(みめぐり)町」。これに由来する。獅子帰坂から市道卯辰山公園線に入り旧養生所跡まで。下れば帰厚・観音・子来(こぎ)の3坂に通じる。国本が『四季こもごも』(2003)の中でそう呼んだ。付近に急カーブが多い。

獅子帰坂の下、三社の杜に接するところにかつて落合茶屋があった。「落合茶屋とは恋人同士が落ち合う茶屋だと思っていたら、獅子帰坂と御転坂が落ち合う場所にできたから落合茶屋と呼んだらしい」と国本。「御廻」という響きからは、参詣に訪れた殿様、慶寧公がお宮の裏手から養生所へと民情視察に歩きまわる果敢な姿が想像される。

秋、花菖蒲園から見上げると、紅葉のパノラマが圧巻である。花菖蒲園の旧名は紅葉谷だ。御廻町は玉兎町、九軒茶屋とともに明治5年(1872)、末広町に統合される。標高141.2m、卯辰山中の最高所・月見台を含む広い末広町になった。


表坂(おもてざか)


お山の顔



一本の坂道を、ここまでは◯◯坂、ここから先は△△坂というのもおかしいが、御転坂から引き継いで、養生所跡から花菖蒲園付近まで下りる坂をいう。途中、山野草園の辺りで大きくカーブする。いまは市道卯辰山公園線の一部になったこの坂も、名前を持つからには、かつては御転坂と境を異にする独立した坂だったに違いない。渓谷(紅葉谷)に沿う斜面にいく筋かの坂があったことは想像に難くない。

昭和2年(1927)に開通した卯辰山公園線は、山の上交差点-山頂-大手町交差点を結ぶ幹線。中で養生所やお宮があったこの一帯は開拓の最重点地区だった。山を上ってきた人たちは、集学所(寺子屋)や舎密(せいみ)局(薬学研究所)、揚弓場、寄席、馬場、芝居小屋、茶屋、湯座屋(薬湯)などへなだれ込んだ。お山のまさに「表」の部分だった。卯辰山公園線はこれらの歴史をすべて呑み込んでしまった。


観音坂(かんのんざか)


四万六千日


観音坂男坂

観音坂男坂


観音坂女坂

観音坂女坂


卯辰山の小名の一つ観音山。元和2年(1616)建立の観音院があったことから、門前の坂をこう呼んだ。明治42年(1909)に新道が開かれ、もとの坂を男坂、切り通しの新道を女坂と呼ぶようになった。昭和33年春、寺の裏山がブルドーザーで崩され、10mほど低くなって宅地が造成された。いま松魚亭や六角堂が建っている。

「観音の山より涼しき風そよそよと」と鏡花(『寸情風土記』、1920)。八月、夏の終わりの四万六千日の宵、男坂は一番の賑わいを見せる。下に浅い雑木林があった。江戸後期、農村出身の水夫市之丞と遊女松千代の悲恋。抱き合う二人。「世の辛酸、たんとなめたわれらだ。死んだと思えば、何ぼでも強く生きられよう」(『市之丞と青葉』森山啓、石川近代文学館、1970)。一方の新道・女坂。振り返るごとに「街が級数的に小さくなる」坂で、国本は「振り向くと不幸がやってくる」と急坂をイメージしてみせた。


子来坂(こぎざか)


最高斜度



山裾、ひがし茶屋街に接する位置に毘沙門天を祀る宇多須神社があり、その「左側ヨリ上リ、養生所跡横手ニ至ル坂路ヲ云ウ」(温知叢誌)。「開拓ノ初メ、御冥加(いまでいうボランティア)ノ人夫、日々数千、此ノ道ヨリ登山セシヨリ此ノ名ヲ付ケタリト云ウ」。登山道としての整備は帰厚坂より早かった。

子来町の「子」は子どもではなく「民」を意味する。だから「子どものようにはしゃぎながら」という名の由来に国本は否定的だ。「多くの民が卯辰山に来たりて住む」。善政のモデルと称え、自身も卯辰山の一角、観音坂女坂に居を構えた。

斜度15度。金沢では車が上る最高斜度で、次いで観音坂女坂の14度、八坂の13度。水平距離100mに対し27m高くなる計算(三角関数)だから相当急だ。先日、坂学会の「巡検」で案内した折、先回りのため空車で上ったが、相当冷や汗ものだった。


一本松坂(いっぽんまつざか)


天を突く



東山寺院群を抜けて、かつての鶯谷から上る。卯辰山工芸工房が見え始めると、左手に宇多須神社奥社があり、道を挟んで向かい側に「卯辰山一本松」があった。高さ11間1尺というから20mを超す。町なかから見上げると、まさに「天を突く」勢いだったことだろう。松の根元に江戸初期、槍の使い手として名をはせた井上勘左衛門の灰塚があった(加能郷土辞彙)。いまは山麓にある宇多須神社はここにあった。茶店が建ち、春秋には桜や紅葉を楽しむ人たちで賑わいを見せたのもなりゆきだった。

松は明治23年(1890)、焚き火の不始末で焼失、2代目は昭和54年に枯死、平成10年には3代目が植えられたがこれも枯死した。隣に立つ樹齢百数十年といわれるヤマザクラと馬場小学校の入学記念樹の桜数本がかろうじて周辺の景観を保っている。平澤が「一本松道」と表現した坂道に、国本は「一本松坂」と名を付けた。


汐見坂(しおみざか)


海鳴り



小坂神社の参道脇に「落葉かく 音海鳴りと 重なりし-冬青」の句碑。潮騒が聴こえるか、と耳を澄ましてみるほどの実感がある。昔、この坂から汐の様子を望見した。

昭和2年(1927)、頂上への、どこからでも樹間に海が見える、卯辰山では一番新しい坂として開通した。開拓録には「一本松春日山へゆく道」からの眺めとして海に浮かぶ帆船が描かれていて、北口ルートはこのころからすでに一部あったことがわかる。

坂の中ほど、汐見坂緑地の一角に開店32年目の喫茶店「スカイ&ブルー」がある。標高80m。ガラス越しに内灘から小松までのパノラマが広がる。「水平線、小松空港までの距離はおよそ33km」と来年1月で80歳になるマスター。三角関数で割り出したという。落日は目の前の水平線を右から左へ、8ヵ月かけて移動する。「ここにいると天動説(信奉者)になる」。天体はドラマチックだ。


(一部敬称略)
(国本昭二さんに捧ぐ)


卯辰山十一坂


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