金沢の坂道コラム

もう一つの帰厚坂 - その延長線上で考える

川縁から上り始める帰厚坂(『卯辰山開拓録』より)

川縁から上り始める帰厚坂(『卯辰山開拓録』より)


桜花爛漫の卯辰山で、にぎわいに背を向けるようにたたずむ一角があった。浅野川に架かる天神橋の北詰め。卯辰山を背にした広見はバス停と、あずまや・公衆トイレのある園地「川岸園」(豊国町・常盤町)からなり、園地の奥・常盤町側にひっそりと25段の石段がある。「これが元の帰厚坂だ」と言っても興味を示す人は少ない。

それもそのはず、帰厚坂と書いた坂標は石段を上った先の道路の向こう側にあるし、石段そのものが木立の陰に草に埋もれている。一段一段の段差もまちまちで、急坂である。宴のあとの帰り道、坂上に立った。花見酒をしっかりといただいた身には目のくらむような急こう配で、脇の手すりがなかったらとてもじゃないが下りられない。各種案内図に描かれず、卯辰山に詳しい『卯辰山と浅野川』の著者平澤一氏(元金沢大教授)描くところの「散策図」にも記入はない。


草に埋もれる急な石段

草に埋もれる急な石段


浅野川縁から一直線

「藩主、病院を開き給う厚き恵み」に感謝して名付けられた(温知叢誌)という帰厚坂。加賀藩最後の殿様、14代前田慶寧(よしやす)が主峰鳶ヶ峯(とんびがみね)に天満宮を築き、中腹に養生所(病院)を設けた開拓事業の象徴的な坂である。山を切り開いて造られた道は、1867年(慶応3)に始まり1年半後の明治元年には終わる開拓のあとも、茶屋や寄席、芝居小屋、大浴場などへ通う多くの人の足跡を残した。

藩営開拓の監督を務めた内藤清左衛門による『卯辰山開拓録』(1869=明治2刊)に絵図が遺(のこ)されている。天神橋を町側から渡り橋詰めを右折すると、民家の間に登山口である石段が見えてくる。かつての帰厚坂で、坂は川縁から一直線に山に入っている。少し上ると天満宮の一の鳥居があり、鳥居の脇に軒先に提灯をいくつもつり下げた茶店らしい建物がある。説明書きには「帰厚坂」「ミカケ丁(現東御影町)」「トキハ町(現常盤町)」などとある。

いまはない鳥居の辺りを現在、バス通りでもある市道卯辰山公園線が横切っている。市道は1927年(昭和2)に山の上-大手町間が全通する前の15年(大正4)ごろに部分開通しているから、このころに帰厚坂の石段を分断して天神橋につなげたとみられる。その後も改修を重ね、帰厚坂は斜度10度(国本昭二氏著『サカロジー』による)に、分断された下部の石段は市道に幅をとられて急坂になった。対岸の浅野川左岸から眺めると、坂がかつて一本であったことがよくわかる。


市道が分断する現在の帰厚坂(上)と元の帰厚坂とみられる石段(下)=浅野川左岸から

市道が分断する現在の帰厚坂(上)と元の帰厚坂とみられる石段(下)=浅野川左岸から


現在の帰厚坂(上)と向き合う元の帰厚坂(手前)

現在の帰厚坂(上)と向き合う元の帰厚坂(手前)


樹木生い茂る深谷


市道がまだ砂利道で、バスが砂煙をあげるなかでわんぱく時代を過ごしたイラストレーター市村淳一さん(59)=東山1丁目=にとって周辺は恰好の遊び場だった。崩れかかったがたがたの石段、坂に沿って流れ落ちる水路は子どもの脳天を刺激した。「(川岸園は)庄屋さんの大きな家があった跡地と父から聞きました」と市村さん。金沢大附属高校の馬術部を指導していた公務員の父が「馬に乗って帰宅した」ころの、自然豊かなころの思い出である。

「帰厚坂は、昔は樹木が生い茂り、人も通らぬ深谷であった」(『卯辰山と浅野川』)。梅渓(うめがたに)に開発の手が入って、奥の部分が後年、紅葉谷(もみじだに)になり、花菖蒲園になった。「山のお天神さん」天満宮にちなんだ天神橋は、有料の一文橋だった1866年(慶応2)、山裾にあった料亭が焼失した際に消火に駆け付けた町人の重みで落下、翌年、新たに架け替えられた。新橋の命名は卯辰山開拓と軌を一にするものになった。

坂道分断の落とし子

開拓録は帰厚坂を「一の鳥居の内側をいう」としているから、あるいは石段は帰厚坂の外側にある延長線上の坂という位置づけだったのかもしれない。それでも、石段はほぼ直線であり、上る人にとって一本の坂道であったことに変わりはない。園地を管理する市緑と花の課によると、文化財的な確認はこれまでなされておらず、どこまでが元の帰厚坂だったかは「かもしれない」域を出ない。分断の張本人である市道にしても、1800年代初頭、文化文政の測量図にこれと重ね合わさるような山道が描かれているというから、行ったり来たりの歴史が繰り返されていることになる。

園地はあと半分が豊国町である。金沢最狭の町であり、昭和37年の新住居表示で旧豊国町のほとんどが東山1丁目に町名変更されたなかでここだけが広見で残った。「世帯数、人口はいずれもゼロ。町会長もいなければ、回覧板もまわらない無人の町」と国本氏がその著『金沢街かどウオッチング』に書いている。「町名変更は、期せずして豊国町のような親から切り離された孤児を作ってしまった」。町名変更の落とし子は、帰厚坂の分断で取り残された石段のありようにも似る。


バス通りから浅野川沿いに下りる

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新旧の帰厚坂に桜が覆いかぶさる

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