常盤坂 続報-モミではなくヒマラヤスギでした
卯辰山の東側からの上り口、常盤坂に沿う芝生広場(常盤町緑地)。その後方にデンと居座るモミ(樅)の木は、いわゆるモミノキではなくヒマラヤスギでした。こと樹木に関しては誤り伝えられていることが多いという。とはいえ、である。伝聞をうのみにしてしまって、反省―。
南寄りの強風「春一番」が吹いた一日、友人の「石川県巨樹の会」高木政喜会長に調べてもらった。どちらもマツ科の常緑針葉樹ながら、枝や葉、松ぼっくりの形などから似て非なるものと判明した。本欄コラム「父子4代で守った常盤坂」(2015年4月29日付)は訂正、お詫びをさせていただく。同じ卯辰山の西寄り、観音坂女坂沿いにある山野草園のツガ(栂)の木と並ぶ「藩政期以来の古木」と紹介したのも間違いでした。

ヒマラヤスギ =常盤町緑地
枝、葉、立ち姿それぞれに
浅野川縁から上って、広場に忽然と現れる高さ10mほどの巨木。ヒマラヤ原産のヒマラヤスギで、周辺にも数本が屹立する。コラムを書いて以来、ほかの木と比べるなどそれとなく観察をつづけてきた。

ヒマラヤスギの針葉を調べる高木政喜・石川県巨樹の会会長
高木さんの鑑定によると、ヒマラヤスギは短枝に針葉が線香花火にように集中してくっついているのと、針葉が傘のように下を向いているのが特徴とか。モミのほうは針葉が短枝のつけ根の吸盤から左右に並んで生え、全体として枝の姿はやや上向きである。同じマツ科の常緑針葉樹・ツガはモミと見間違えられがちだが、葉は丸みを帯び、とがったモミとは対照的。葉の裏側には気孔帯があって唯一、白っぽい。

ヒマラヤスギの針葉

モミの針葉

ツガの針葉
松ぼっくりもヒマラヤスギ、モミは枝の上に生えるが、ツガは枝からぶら下がっている。ヒマラヤスギは果鱗が開いてざらざらしていてモミは丸みがある。ツガの松ぼっくりはこの二種と比べて明らかに小さい。
洋風の牧場にマッチ
なぜ、常盤坂周辺にヒマラヤスギが多いのか、については一つの推測が成り立つ。一帯はかつて油谷牧場だった。放牧された乳牛がいて、家族連れや若い女性が集う洋風のミルクホールがあった。99年前の大正7年(1918)、JR金沢駅の開業に伴い此花牧場を移転して常盤牧場とした初代油谷定吉さんが、輸入されて間もないヒマラヤスギを修景のために導入した―。「アンブレラ」と呼ばれる円錐形の美しい樹形は当時の気風にマッチしたに違いない。
モミは天神橋を渡って帰厚坂を上り、千杵坂-三ノ坂-開基坂(二ノ坂)-一ノ坂と上がる「三社の杜」に多い。明治維新の前年、慶応3年(1867)から始まった加賀藩の卯辰山開拓の際に台地を造成するため木々を伐り払ったあとに植えられたとみられる。樹齢はせいぜい150年ほどだ。「スダジイの森だね」と、辺りを見渡しながら高木さん。学究のつぶやきはわたしには何のことかわからない。

モミ =三社の杜
ツガは樹齢200年以上
山野草園のツガは「優に200年以上」という鑑定結果が石川県巨樹の会の濱野一郎前会長より下されている。藩による開拓は山容を一変させるほどの事業だった。山野草園は斜面を四段からなる台地にならし、料亭の用地とした。多くの樹木が伐採された中で一段目のツガは慶応の伐採を免れた。幹周り3.2m、樹高20mの堂々たる巨樹だ。
卯辰山は標高141m。原植生はシイ-タブ林で、いまもところどころに面影を残す。これまでにサクラ、モミジなど様々な樹種が植えられてきたとみられ、とくに1910年(明治43)に市有公園となる際にはアカマツ、クロマツ、スギが16万本植栽された。
<参考文献>
- 『かがのと巨樹名木探訪』田中敏之、北国出版社、1988
- 『ドングリと松ぼっくり』平野隆久・片桐啓子、山と渓谷社、2001
- 『四季こもごも-金沢の街と坂と卯辰山-』国本昭二、橋本確文堂、2004