金沢の坂道コラム

父子4代で守った常盤坂

新緑にカナメモチの赤が映える常盤坂

新緑にカナメモチの赤が映える常盤坂


郷愁の油谷牧場

卯辰山(141.2m)への登り口はいくつかある。周囲8km余。春日山、観音山、愛宕山、茶臼山などいまはもう「どこまで」と判別できないくらいの峰や丘が寄せ集まった卯辰山だから、それは当然のなりゆきかもしれない。天神橋から登る帰厚坂や東山からの子来坂が表の坂とすると、常盤坂は浅野川に切れ落ちる南麓への裏の坂である。


浅野川に面した常盤坂の登り口

浅野川に面した常盤坂の登り口


温知叢誌の玉兎ケ丘「庚申塚跡」の項に「此ノ台地ノ南方ヨリ、浅野川々縁常盤町ニ下ル路アリ、元ノ粒谷町ナリ」とある。「慶応三年(1867)卯辰山開拓概図」にも残るこの細々とした延長約500mの坂道が、やがて行楽の人びとでにぎわう往来となるのはいまから97年前の大正7年(1918)、油谷牧場が建設されてからだ。旧国鉄(JR)金沢駅の開業に伴い、此花牧場の用地を提供して移転、常盤牧場と名を改めた。乳業メーカーの代理店も兼ねる「白山そば」の(株)油谷、油谷肇社長(55)は4代目にあたる。


昔からの散歩道

以下は油谷さんと、筆者が子供のころ牧場へ遊びにきたときの思い出のミックスである。

―50頭ほどの乳牛がいた。北欧風の牛舎がところどころにあった。放牧場は2カ所あって、いまは金沢市の常盤町緑地(平成14年開設)となっている芝生の広場とその下の中腹に広がっていた。広場の中央に小さな池があり、ついたてのようなコンクリート壁にギリシャ神話からのものか牛と女性が描かれたレリーフが掛かっていた。会合などにも利用された「乳業会館」という洋風の建物があり、そこで搾りたての牛乳を飲ませてくれた。牧場は開放され、乳牛と触れ合うことはもちろん、山頂の遊園地・金沢ヘルスセンターへ通り抜けることもできた―。

「昔からの散歩コースだったんです」と油谷さん。明治維新であえなく頓挫するものの、幕末の慶応3年からは加賀藩による卯辰山開拓が始まった。藩営・町民参加で福祉・厚生・教育・娯楽の施設が建設され、常盤坂の上には寄席や落合茶屋があった。孟宗(もうそう)の竹林がつづくつづら折りは、いまほどは開けていなかったかもしれないが、文明開化へとつづく希望の道だった

月日は流れ、小中学生の運動会、写生会があり、親と子の行楽の姿があった。だれでも通れる山道を油谷さんは「散歩コース」と表現した。その散歩コースはほとんど油谷家の素人工事で手入れされていた。

山を守る気概

豪雨で山道が崩れると油谷さんは祖父の大(まさる)さん、父の昭さんと一緒になって補修をした。車が上がりやすいように崖を削りコンクリートを打った。鉄板に広げたセメントに砂利を混ぜ、水を加えてかき回した。いまならミキサー車がやることを人の手で行った。一緒に側溝の見回りをしたことも覚えている。常盤牧場は曽祖父定吉さんが手作業で切り開いた。受け継いだ祖父から孫の三代にも、「山を守る」気概があった。

昭和47年(1972)の梅雨どき、集中豪雨で山頂に源流のある第二常盤川が氾濫し、谷につながる牧場東側の崖が崩れた。土砂と一緒に大量の牛糞や堆肥が流れ出し、付近の人たちから牧場公害と非難された。周辺の常盤橋から天神橋にかけてはいまも急傾斜地崩壊危険区域。素人工事が仇となった。

牛乳は瓶から紙パックに販売形態が変わろうとしていた。先行投資のいとまもないまま、牧場はお金を生まない山になってしまっていた。崖崩れを機に、乳牛たちは河北潟畜産団地やキゴ山放牧場などに分散された。経済原理という奔流に押し流された牧場は廃墟となり、一角にしばらく、余儀なき移転を悲憤慷慨する、大さんの手によるものだろう一文を記した看板があった。わずか20年ほど前の話だ。やがて牧場は市の管理するところとなる。

樅ノ木は見ている


サクラの芝生広場とシンボリックな樅ノ木(左)

サクラの芝生広場とシンボリックな樅ノ木(左)


芝生広場は毎春、満開の桜に彩られる。園路となった常盤坂はこの広場に沿って、浅野川に面した登り口から卯辰天満宮裏の市道卯辰山公園線に一気に駆け上がる。紅葉のころ、一帯は錦織りなす圧巻の風情となる。

生きものたちも多い。母子とみられるタヌキのペアのグルーミングを見た。振り返って見上げた丘に大きなニホンカモシカがいたのにはびっくりした。これを含めて、私が散歩を始めたこの10年ほどでタヌキに3回、ニホンカモシカに2回遭遇した。ほかにキツネ、イタチが1回ずつ。金色トカゲやヤマカガシは何回か見かけた。いずれも緑地内でのことである。花では彼岸花がいい。


卯辰天満宮周辺で出会ったきれいな黒ダヌキ(筆者画)

卯辰天満宮周辺で出会ったきれいな黒ダヌキ(筆者画)


明治の金沢三文豪のうち、麓に住んだ徳田秋聲(1872-1943)、泉鏡花(1873-1939)も愛した卯辰山。卯辰山全体が公園として整備されたのは昭和2年(1927)で、この時、北口の汐見坂が開鑿され、先に改修された西口の帰厚坂と併せ登降の便がよくなった。山腹にはアカマツやサクラが植えられた。

芝生広場の奥のほうに一本の樅ノ木がある。高さ10m余。西口・観音坂女坂に沿う山野草園の栂の木と並ぶ針葉樹系の古木である。藩政期からあったとみられる樅ノ木は、公園創設100周年の2027年目指して新たな整備計画が練られるなか、常盤坂の移ろいを泰然と見下ろしている。


ゆったりした折り返しの坂路

ゆったりした折り返しの坂路


シャガ満開

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朱色の豊国橋

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