金沢の坂道コラム

一本松は残った - 卯辰山十一坂のうち「一本松坂」

卯辰山十一坂」(2015.12.25付)の一つ、一本松坂もついに認知されたか、との思いを強くしている。Googleマップにその名が記されているし、坂道を紹介するサイトも普通にその名を使っている。『サカロジー-金沢の坂』の国本昭二さんが「この名もない坂を私はひそかに『一本松坂』と呼んでいる」(1999年掲載)と遠慮がちに書いてから19年、その名は着実に根付きつつある。


地図に描かれた一本松坂(Googleマップより)

地図に描かれた一本松坂(Googleマップより)


4代目


「十一坂」で筆者が「明治23年(1890)、焚き火の不始末で焼失、2代目は昭和54年に枯死、平成10年には3代目が植えられたがこれも枯死した」と書いた松は、その翌年(平成28年=2016)、4代目が植えられ復活した。高さ20mを超したといわれる初代には及びもつかないが、5mほどに伸び、松の翠(みどり)も美しい。周囲に柵が設けられ、新しい説明板が添えられた。割れたままの3代目の説明板が、少し離れた木陰に打ち捨てられていたことを思えばよほどの厚遇だ。

ところで、坂はいつ頃からあったのだろう。ひょっとして国本さんが命名する前に一本松坂という呼び名があったかもしれない。不遜(ふそん)な気がしないでもなかったが、調べているうち恰好の本に出合った。昭和50年(1975)に出版された『卯辰町のあしあと』(以後『あしあと』)。著者の西村五門さん(故人)がふるさとへの思いを込めて綴った史書で、中に卯辰町内の道路について書かれていた。


4代目一本松

4代目一本松


裏街道


「裏街道から卯辰山につながる道路が三つあった」。裏街道とは、旧北陸街道(北国街道・現国道359号)の表街道に対する“裏”で、卯辰山の裾を走っていた。「山頂を避け、中腹から谷間を縫うようにしてあり、現在も各所に残っている」とある。奥州路に向かう義経一行がここを通る。そして「一本松に袈裟をかけて一休み」するが、稜線につながる三つの道の一つが一本松のあるこの山道だった。義経一行は休んだあと、春日山(卯辰山の北部丘陵)を経て鳴和の滝へ下り、北陸街道に戻る。

伝説から一本松は「袈裟かけの松」と呼ばれる。利家の家臣で槍の使い手・井上勘左衛門の灰塚に植えられた松とする説とは「鎌倉」と「江戸」の違いがあって4代目も困惑気味である。時代的には無理だが、井上家が「頼朝卿時代より加賀土着の士」(『あしあと』)であり、かつての井上庄が津幡町から金沢市北端にまで広がる(『日本歴史地名大系・石川県の地名』)となれば、距離的に二つの話が結び付かないこともない。結び付いてどうなるものでもないが…。


市街地を望む。最大斜度は18°

市街地を望む。最大斜度は18°


昼なお暗い、まさに山道である

昼なお暗い、まさに山道である


「里山を縫う山道」


『あしあと』では、一本松坂は一本松道路と表現されている。地元の人も「坂」という言い方は耳にしていない。上り口の鶯町の町かどに朽ちかけた道標がある。石柱には「右〇〇〇一本松往来」とある。判読不能の〇〇〇は旧「卯辰村」だということが『あしあと』で分かった。一本松坂と呼ばれた形跡はどうやらなさそうである。名付け親は国本さんであるといってまず間違いないだろう。『サカロジー』にある「一本松坂」の副題は「里山を縫う山道」である。諸々の状況を読み込んで付けられたものであろう。

山道は農道でもあった。「卯辰村といわれた頃(藩政期-明治期)、そこに住む人たちは農民、すなわち百姓だった」と西村さんは書く。村は城下町の発展に伴い次第に山手へ追いやられ、明治になると「卯辰山一帯を新しく開拓して田畑」とする。西村さんから「あとを頼む」と卯辰町の町会長を引き継いだ五十嵐光蔵さん(89)は「3本の道を市道に認定してもらうため」奔走、市道は昭和40年(1965)に拡幅され開通する。それまでは荷車の轍(わだち)が残る草ぼうぼうの道だったという。


「一本松往来」と刻まれた道標

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