金沢の坂道コラム

かいもち坂は飢饉(ききん)坂

東荒屋町から湯涌温泉方面を望むだらだら坂のかいもち坂

東荒屋町から湯涌温泉方面を望むだらだら坂のかいもち坂


医王山麓、浅野川上流域の右岸に東荒屋町がある。大正期初頭までは和紙漉(す)きを生業としてきた河岸段丘上のこの町のはずれに、「かいもち坂」はある。「かい餅坂」とも書くこの坂を主語扱いにしたのは、紹介者である加越能地名の会の前代表中村健二氏に敬意を表する意味合いからである。坂の語源は「飢えた吾(わ)が子のためにカイモチ三個と日当たりのよい一級田を交換した」ことによる。

中村健二氏が発掘

中村氏は平成6年(1994)、金沢大学理学部地学教室の技官を退職、現在は病と闘う身にある。1989年1月から始まった同大日本海域研究所の「金沢市の郊外における伝承地名」調査で氏は山麓地域の伝統的小名(小字より微細で、地理的にも登録されていない地名)の収録に奔走、実に385人から聞き取った結果を第一報(1991)にまとめる。冒頭の語源はここで紹介され、退職後の2005年に著す『医王山物語―山麓のなりわいと自然』(北國新聞社出版局)で詳述される。

かいもち坂は金沢市内から湯涌温泉に至る県道10号線(旧湯涌街道)のうち、東荒屋町バス停付近から上手隣の朝加屋町入口までの1km足らずを指す。幅10m前後の、車がびゅんびゅん走る現在の道を見ていては、そこがかいもち坂であることを認識するのは難しい。名前が付けられたであろう藩政期に思いを致さねばならない。「度重なる飢饉や旱(ひでり)の連続で人びとはみな飢え、路傍で餓死するものが続出した。食うものもなく、やせ衰えたわが子のためかい餅三個と先祖伝来の美田一枚を交換した故事を地名とした」(『医王山物語』)。

やせ衰えたわが子見るに忍びず

かい餅とは、蒸した糯米(もちごめ)をすり鉢でつぶし、丸めて小豆や黄粉をまぶしたもの。近年のかい餅は百パーセント糯米を使うが、戦前までのかい餅は粳米(うるちまい)と半々の、しかもくず米を混ぜた粘性の少ない粗雑なものだった。これと交換せざるを得なかった田は、耕作地が少なかったこの在所としては「たしかに、かけがえのない美田であったとうかがえる」(同)第一級のものだった。目の前の、やせ衰えたわが子を見るに忍びず美田を手放す、圧政の前にたたずむ農民の姿が思い浮かぶ。

このころの飢饉史からの記事として中村氏は「湯涌谷百姓、小立野をもたつく」(宝暦6年=1756)、「稗(ひえ)、麦などをまぜて食しけるに、糞つまりて皆死せし」(天明4年=1784)、「強訴する湯涌谷貧民集団」(天保元年=1830)などと『山の民物語―医王山西南麓の史・資料集』(北國新聞社、1994)に記す。

あらとのむしろ

「主婦座(あらと)の筵(むしろ)」という正月行事がある。囲炉裏周辺のむしろは正月に新品に敷き替えられるが、主婦が座った「あらと」のむしろだけはどこの家でも新調されなかった。昔、大飢饉で大勢が息絶えたときに、塩や味噌をこぼしたあらとのむしろを粉にし団子(だご)にして一時しのぎをした貴重な体験があったからだという。

「落穂拾い」はフランスの画家ジャン・フランソワ・ミレー(1814-75)が57年に描いた油彩画である。この時期(文化年間-明治期初頭)はわが国でも飢饉や災疫がつづいて人びとは死を免れるため必死となった時代である。寡婦や貧農が命を繋ぐための権利として認められていた落穂拾いだが、飽食三昧に酔いしれる日本という国の昨今、中村氏は「それでも老婦たちは穂袋を携えて田圃へと出かけるが、落穂など持ち帰ろうものなら、農協も家の息子(あんか)も顔をしかめて声を荒らげる異様な時代となった」と嘆く。

“バンドリ田”は何を語る

かいもち坂はかつては旧街道の中でもとくにくねくねした道で知られていた。道幅は荷車と人が行きかう程度。それが昭和7年(1932)の白雲楼ホテル開業に併せて当時としては珍しいコンクリート舗装の道路となり、さらに県道とすべく拡幅されいまの姿になった。崖を削り、土手を広げ、谷を埋めて、一直線に道を通した。昭和期、20年に及んだ工事で、中村氏の表現を借りると“だらだら坂”の総延長は、旧道の半分以下にもなった。

「途中の一枚の田んぼからゆずの木畠まで」とかいもち坂の位置を限定するのは東浅川校下町会連合会長の石野良雄さん(76)=藤六町、農業=。湯涌へ向かう県道10号線左手の田圃の脇から畦畔(土手)を上がり150mほど先のゆずの木畠へ下りる。いまは草木が茂り坂の跡形もないところだが、荷かき(背負う)の時代、人びとはここを上り下りした。集落と集落をつなぐ道の脇にござ蓑ほどの小さな“バンドリ田”が点在した。道は浅野川に沿うように蛇行して現在の湯涌街道大橋につづいていた。

なぜ、この範囲なのか、という問いは愚問だろう。なぜ、かいもちなのか、と同じで答えられる人はいないからだ。


「ここから畦畔を上がった」と、道路の向こう側、視線の先のかいもち坂の限定位置を示す石野さん

「ここから畦畔を上がった」と、道路の向こう側、視線の先のかいもち坂の限定位置を示す石野さん


石野さんがいうかいもち坂の上り口にあたる茂み(左の農道の上)。道だった面影はない

石野さんがいうかいもち坂の上り口にあたる茂み(左の農道の上)。道だった面影はない


30年ほど前、道路の拡幅のため家を山側へ下げた田中清さん(75)=東荒屋町、農業=はゆずの特産地化に力を注ぎ43年になる。国の減反政策に沿ったものだったが、7年前の浅野川水害で一部流され、大型車による除雪作業で毎年のように痛みつけられ、最近ではゆずの棘(とげ)を嫌って離農する若者が増えて手を焼いている。先人に聞くまでもなく、「農」は昔もいまもきつい。


山の民がたどった「証」

二人ともかいもち坂の話は親から聞いた。だが、「桜井(兵五郎氏=白雲楼ホテル創設者)道路」の時代である。坂の姿は一変していた。農業者に飢饉の話は遠い昔のものになっていた。美田はたのもし(頼母子講)の抵当に取られた、という話もある。それでも、話は親から子へ伝わった。語り継がれてきた。そこに将来につながる可能性が見いだせる。

中村氏は『山の民物語』の「はしがき」と「あとがき」でいう。「施策無き農政」のなかで、「『山の民』がたどってきた『証』をいま一度凝視し、福録に酔う現代から、限りある資源の未来を模索しようと試みることも、あながち、無意味ではない」―。


廃道となった旧桜井道路はかいもち坂の原形でもある。錆びたガードレール(右)が残る

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