金沢の坂道コラム

石川門前 土橋坂 ― 埋もれた中世の坂

金沢城址石川門の前にある石川橋はかつて土橋だった。土橋とは、丸太の上に土を敷いて歩きやすくした橋と違って、そこが戦の場である場合、多くは堤を意味した。今をさかのぼる474年前(1546年=天文15)、小立野台地の端に本願寺が金沢御堂を置いたことにその歴史は始まる。一向一揆の時代、通路としての役割とともに御堂の防御の一翼を担ったであろう土橋は、西に向かって入るところから西方浄土に通じるという思想的な意味合いを持っていたと考えられている。


石川門前の石川橋。「土橋坂」はこの下にあった

石川門前の石川橋。「土橋坂」はこの下にあった


河北坂にも「土橋坂」

土橋は、門と向き合う台地(現兼六園)との間の谷底に人為的につくられた堤で、その形態は坂だった。近世初期に描かれた『加州金沢之城図』(東京大総合図書館蔵)には「土橋坂」と書かれている。同名の坂は金沢城の実質的な正門とされる河北門の前にもあり、土橋坂は絵図を作成する上での用語だったとみられている。とはいえ、河北門前の土橋坂である河北坂が断層に築かれた今とほとんど変わらない姿であるのに対し、搦手(からめて)である石川門前にあった土橋坂が盛土に盛土を重ねて土の橋になり、さらには鉄筋コンクリートアーチ状の陸橋・石川橋になるという変貌ぶりに「金沢の坂道」子としてなにかしら魅かれてしまうのである。


河北門前の河北坂。右奥は二ノ丸菱櫓

河北門前の河北坂。右奥は二ノ丸菱櫓


石川門前土橋坂(以下土橋坂という)は16世紀末、金沢御堂を落として入城した佐久間盛政の時代に一度、改修されたとみられている。それまでの坂はどうだったのか。1992年(平成4)から足かけ3年、ほとんど専従で「金沢城跡石川門土橋(通称石川橋)発掘調査」にあたった県立埋蔵文化財センターの伊藤雅文さん(現公益財団法人同センター所長)によると、掘っていけば台地の痕跡である卯辰山層と呼ばれる地層に突き当たると思っていた。その地層は少しは坂の形をしていたかもしれない―。現れたのは平坦な谷底だった。坂は、盛政の入城以前に人の手によって築かれたものだということがこのとき判明した。

幻の材木町

縄張りは、盛政のあとに入城した前田利家によってさらに改められていく。調査では6つの盛土層を確認、時代別にも御堂があったときのものと近世の金沢城に伴う遺構3つの計4つの姿を明らかにしている。初期の土橋坂は南側の蓮池堀(百間堀)側が池状で、北側の白鳥堀側は16世紀後半の鍛冶炉と鋳造炉が遺る町場だった。ほかにも刀装具や煙管(きせる)、瓦類、下駄、漆椀(うるしわん)などが掘り出されている。金沢平野を一望できる地勢は古来、人の住む適地であったようで、周辺からは石器や土器を出土している。土橋の位置は御堂時代から変わっておらず、後に紺屋坂と呼ばれる北側の一帯は門前市で、土橋以前の土橋坂は市と御堂を直接結んでいた。


1907年(明治40)の百間堀=『20世紀の照像』(能登印刷、2003年刊)より

1907年(明治40)の百間堀=『20世紀の照像』(能登印刷、2003年刊)より


白鳥堀側の門前市とは、町が現在地に移される前の材木町だったのだろうか。材木町は初め城郭内にあったとされ、その位置は紺屋坂周辺だったという。在城わずか2年半だった盛政(参考:2020年2月4日付『戦国の軍道坂は対岸にあった』)だが、この間につくったとみられる尾山八町(初期の城下町)の一つ、材木町がどこにあったのか。紺屋坂の下には紺屋町があったとする文献もあって「材木町は紺屋町と混同され判然としない」(『材木町連史』1977年刊)のが実情だ。伊藤さんも「金属を溶かす炉があったということは工房があり人びとが作業していたということ。他の出土品を含めて人の居住があったことは確か」だが、そのことと町の存否は結びつかないという。

斜度12°は帰厚坂クラスの急坂

坂道はどんな姿だったのだろうか。県金沢城調査研究所担当課長の柿田祐司さんによると、土を建材にこれを強く突き固めた盛土の土橋は、16世紀末になると地表から約5mかさ上げされ、通路の幅も拡げられている。このとき北側に展開していた鍛冶炉などの遺構はすべて盛土の下になった。土中を1632年(寛永9)に掘削された辰巳用水の木樋(後に石管に転換)が通っており、木樋の勾配などから土橋の表面の最も低いところは標高約34.5mだったと推定されている。当時の石川門の標高が現在と変わらない約40mだったとすれば、人びとは約5mの坂を上り下りしていたことになる。


土橋坂の面影を残す土橋の断面。左上は石川門菱櫓(1993年)=県立埋蔵文化財センター報告書より

土橋坂の面影を残す土橋の断面。左上は石川門菱櫓(1993年)=県立埋蔵文化財センター報告書より


斜度はどうか。調査では御堂時代の地形は兼六園側が石川門側より高かったと推測されており、土橋坂は兼六園側から緩やかに下り、石川門の手前で急な上りに変わっていた。柿田さんに地図をもとに測ってもらった。坂の長さを現在とほぼ同じ80mとすると、下り→上りの変換点が3分の2地点とされていることから55mほど下り、そこを最低点にこんどはその先25mほどを上ったことになる。斜度は12°。帰厚坂と似た急坂(参考:2018年11月21日付『御参詣坂余話:斜度とは』)である。その名残か、今も石川門寄りの変換点辺りはやや凹んでいる。ちなみにパソコンの地図で測ったところでは、現在は兼六園側のほうが50cmほど低い。土に埋まった坂と違って、地表は絶え間なく変動しているのだろう。

改修、かさ上げが進み、17世紀中に土橋は石垣づくりとなる。1911年(明治44)、堀が埋められ道路となる。土橋は「百間堀道路」を通すコンクリート製のアーチ橋になり、石川橋と呼ばれる。当時の最新技術で誕生した陸橋だったが、80年を経てつくり替えられる。下に歩道がないことが要因だった。95年(平成7)、都市計画道路寺町今町線整備事業で拡幅され、今の石川橋となる。土橋坂は「遺すことを前提にした史跡の破壊」により記録に名を残すだけとなった。


17世紀半ば以前の姿とみられる『加州金沢城図』(玉川図書館蔵)

17世紀半ば以前の姿とみられる『加州金沢城図』(玉川図書館蔵)




参考資料

  • 『金沢城跡石川門前土橋(通称石川橋)発掘調査報告書』Ⅰ・Ⅱ 石川県立埋蔵文化財センター 1997(Ⅰ)1998(Ⅱ)
  • 『絵図でみる金沢城』石川県金沢城調査研究所 2008

金沢城には現在、河北坂のほかに次の6坂がある。

甚右衛門坂城中北口。一揆方の美濃の浪士平野甚右衛門が奮戦、討ち死にしたと伝わる。諸説あり。
尾坂利家が西丁(西町)口にあった大手を移した。小坂村(現小坂町)に面していた。嘉字に改め尾坂。
御宮坂東照宮(現尾崎神社)が勧進された地にあった。三ノ丸から甚右衛門坂口へ出る。
雁木坂橋爪門から二ノ丸へ上る。坂の土留めに雁木を使ったことからの呼称。後に石段となる。
松坂一帯に松が生い茂っていた。二ノ丸から玉泉院丸への往来。
いもり坂本丸下から玉泉院丸につづく堀に大きなイモリがいた。坂下に神社があり、宮守堀とも。

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