「坂」より「辻」なのだ ― 賢坂辻のいまむかし
「辻」とは字のとおり十字路のことである。賢坂辻(小将町・兼六元町)の名はだから、賢坂という坂が接していることからきているとばかり思っていた。ところが、そこにある坂が賢坂と呼ばれることはまずない。あえて言うなら「賢坂辻の坂」ということになろうか。
町立て当初から四つ辻があった
町の成り立ちから入ることにする。藩政後期の亀の尾の記に、佐久間盛政のころは街尾だったことから刑場があったとされるが、確証はない。すでに材木町が町立てされていたともいい、材木町剣崎辻(旧材木町2丁目と3丁目の間)と呼ばれたこの辺りは藩政初期の慶長年間(1596-1615年)には町並みが形成されていた(田井天神=現椿原天満宮=社記)。
小立野の先端にあるから丘陵を剣の先に見立てて剣先、出崎でもあるから剣崎となる。久保市乙剣神社(下新町)の氏子地の地境にあるから剣境辻、これが訛ったとする説もある(材木町連史=1977年刊)。いずれにしても「剣崎(剣先とも)」が先名としてあり、そこが辻だったことで剣崎辻の名が生まれた。初めに辻ありき。剣坂とか、1871年(明治4)の戸籍編成で「剣」が「賢」に変えられた賢坂などという坂名はハナからなかった。あったのは町立て当初の様子を想起させる街路・四つ辻の名前だったのである。
「材木町剣の崎辻」
金沢城の石川門前、紺屋坂辺りにあった町家が立退料として材木をもらい移転したとか、かつて藩の材木蔵があったとかの由来は別として、材木町の前はここに田井村があった。材木町が来るために田井村は移転させられ(現田井町)、田井天神もこのとき村民と行をともにする(現天神町)。「材木町剣の崎辻」と田井天神社記にある辻は、その後80年を経ると「御小姓町剣先辻」「味噌蔵町剣先辻」(元禄六年侍帳=1693年)と名を変える。
東側の内・外惣構堀があるこの界隈は早くから城塞都市化が進んでいたことが窺える。町家の間に小姓(小将とも書いた)が住み、軍事用の味噌蔵ができて、町は武家地混在の城下町になってゆく。辻の重要度も高まってゆく。
一つの辻が名前を変えたのではなく、それぞれ別の辻があったのでは、とする説(金澤古蹟志)がある。丘陵の裾に這う材木町と違って、そこへ隣り合って下りる御小姓町(現小将町)、味噌蔵町(現兼六元町)が何本かの坂道を抱えていてなんら不思議はない。ただ、それがどれも四つ辻となると少し不自然である。古地図を見ても判然としない。ここはひとつ、正式な住所のなかった時代、坂の両側に住む侍が日ごろそれぞれの町名をかぶせて口にしていただけ、辻はもともと一つだったと考えるほうがよくはないか。
連続する商店
四つ辻といっても、現存するものでは最古の巨大城下図・寛文七年金沢図(1667年)に描かれるのはかぎ型である。兼六園下から来た賢坂辻通り(現国道159号線兼六大通り)が、さらに東南方向に進むには家一軒分右にそれた小路に入らなければならなかった。ここから先は御小人(おこびと)町。殿様の行列の際に身の回りの世話をする小者の組地があったことからきているが、町家の進出で様子が変わり町名だけが残っていた。
現状でいうと、元食品ストアと元銀行支店の間の、元ストア寄りを入る。小路は「河北郡若松、二俣を越えて越中に入る」道であり、辻は「越中米が運ばれ、金沢の相場とは別に田井口相場が立った」ほどの交通の要衝だった。
辻に取りつく通りはほとんどこのままの状態で近代を迎える。坂の両側の町は「賢坂辻通」になり、明治の初めの姿を映した皇国地誌は通りの幅を「広きは4間(7.2m)、狭きは2間2尺(4.2m)」としている。さらに直進しようとすると幅はもっと狭くなった。「賢坂辻通りはやっとのことでバスが通ったが、御小人町は車もやっとやっとの状態だった」と辻の西北角に住む苗加晴二さん(82)=横山町=。父親が当時の材木町3丁目に開いた靴店の前から周囲を見渡すと、駄菓子屋、下駄屋、八百屋、酒屋、自転車屋、薬屋、塩もん(もの)屋、まんじゅう屋、うどん屋、洋服屋が連続して並んでいた。
消える面影、消える坂
かぎ型が解消されるのは1979年(昭和54)のことである。兼六園下から田井町交差点を経由して下田上橋に至る兼六大通り・兼六東大通り間3.3kmが全線開通、人家が密集して難航していた事業は14年ぶりに完工する。多くの家が立ち退きを余儀なくされる。住居表示の変更もあって、辻の所在地は小将町・兼六元町、辻に向き合う家並みは横山町と扇町になる。4車線になった道路に車ばかりが多くなる。商店街衰退の始まりである。
大通りの先に山側環状道路ができて富山へはいっそう近づいた。その陰で、かつて越中米を運んだ道はその歴史を語られることはなくなった。「人通りはこの辺で一番多かった」(苗加さん)という商店街にシャッターを下ろす店が増えた。昔日の面影は辻の変容とともに消えていった。なにより、賢坂と呼ぶことはないにしても、その坂から下りる「槌子(つちのこ)坂」、「梅ヶ枝坂」という愛すべき名の坂のあることが語られないのは残念である。