金沢の坂道コラム

槌子(つちのこ)坂の怪

見上げる槌子坂

見上げる槌子坂


「つちのこ坂」と呼ばれる坂がある。大正から昭和の初めの金沢市街の様子を描いた郷土史家氏家栄太郎氏の『温知叢誌』(1999復刻)に「賢坂辻通(現兼六大通り・国道159号線)中程ヨリ味噌蔵町上中丁(現兼六元町)ニ下ル坂路ナリ」とある。今に合わせていうと、味噌蔵町小学校の正門前を上る長さ約10mの、ちょっと急な坂道がそれだ。

この愛らしい名前、人や車がよく通る割にはそれほど知られていない。昭和9年に刊行された郷土史家森田平次(柿園)氏の『金澤古蹟志』(1976復刻)には「名高き坂路」とまで書かれているというのに―。


見下ろす槌子坂

見下ろす槌子坂


味噌蔵町小学校前のカーブミラーに映る槌子坂

味噌蔵町小学校前のカーブミラーに映る槌子坂


出典は奇談集


槌子坂について触れている文献は、私の知る限りでは5誌にのぼる。先の2誌のほかに『加能郷土辞彙』(日置謙、北国新聞社、1956)と『亀の尾の記』(石川県図書館協会、校訂:日置謙、1932)の郷土2誌がともに地名として取りあげ、『角川日本地名大辞典』(1981)は旧金沢町の小字として載せている。

著者(校訂を含む)を生年順にご登場願うと、「―古蹟志」の森田氏(1823-1908)、「温知―」の氏家氏(1863-1939)、「加能―」「亀の尾―」の日置氏(1873-1946)となる。ごく大雑把にいうと、幕末から戦後の123年間、3氏は郷土史という共通の土俵で相撲をとったことになる。郷土史家として重ならないまでもつながってはいるだろう。そんななかで、怪談めいたこの坂の由緒について森田、氏家両氏が肯定的にとらえているのに対し、日置氏は「その名義について坊間(市中)に伝える怪談があるが、信じがたい」(加能郷土辞彙)と躱(かわ)す。斯界で指摘される“世代の違い”がこんなところに現れているのかもしれない。

うち金澤古蹟志が出典を明示している。北国奇談巡杖記(ほっこくきだんじゅんじょうき=1807年)である。加賀金沢の俳人綿屋北巠がその健脚にまかせて北陸各地を遊歴して捜(たず)ね記した見聞録で、64編の随筆からなっている。その一つが「槌子坂の怪」。現代語訳した『奇談』(日本古典文学幻想コレクションⅠ、須永朝彦著、国書刊行会、1995)を手がかりに中身を見てみよう―。

小姓町(小将町)の中ほどに、なだらかながら怪しい径(みち)がある。草が生い繁り地中からいつも水があふれ出ていて、昼間でもなんとなく気味の悪いところである。ことに小雨のそぼ降る夜半など、たまたま心がけの悪い人(原文では「不敵なる人」)が通りかかったりすると、ころころと転がり歩くものが現れる。これがつちのこである。大きさは搗(つ)き臼ほどの横槌。色は真っ黒であちこち転がり歩き、消える寸前に、呵々(からから)と二声ばかり笑って雷の音を発し、バッと光を放って消え失せる。この怪異を見たものは古来何人もいて、2,3日は毒気に中(あた)って患うという。ために槌子坂と呼び、夜間は往来も途絶えがちである。

ころころとあちこち転がり歩く


つちのこのイメージ

つちのこのイメージ

―なんとも恐ろしげだ。似たような話が加賀藩の支藩大聖寺藩にも伝わる。夏の夜、川舟で通りかかった兄弟の傍らの道を、黒く丸く一尺四、五寸(42‐45㎝)のものがころころと行く。竿で打とうとすると消え失せた。―寛政11年(1799)、時の藩主が宿直の藩士に語らせた怪談話(『聖城怪談録』江沼地方史研究会編)の一つである。黒く「ころころ」とあちこち転がり歩くつちのこの姿が共通している。

つちのこは竜や河童のようにわが国に伝わる未確認動物の一つ。鎚に似た胴の太い蛇と形容される。動きは悠長で、尾をくわえて体を輪にして転がり移動する。「チー」と鳴き、いびきをかくともいう。猛毒を持つという説もある。マムシでも近づいただけで毒気にあたる(場合がある)というから、つちのことなるともっと大変だったに違いない、などと考えてしまう。


「妖怪ウォッチ」にも登場


最近では、テレビやゲームで子どもたちに人気の「妖怪ウォッチ」にキャラクター「ツチノコ」、「ツチノコパンダ」として登場している。逃げまくるキャラとはいえ、こちらのほうは可愛くあどけない。


流れ込む旧東内惣構堀

流れ込む旧東内惣構堀

ところで、この話、地元でも知る人はほとんどいない。坂の脇を旧東内惣構堀(ひがしうちそうがまえぼり)が流れ、水気の多いところだったこと、道幅がいまの半分ほどだったことまでは知っていても、つちのこ騒動までは聞き及んでいない様子なのだ。旧惣構堀に沿った約500m先に、橋を渡る10人のうち9人の影しか映らなかったという「九人橋の奇事」(同巡杖記)のいい伝えがあり、旧町名(九人橋下通)に残ったほどよく知られているというのに、である。九人橋が発信した“文化”は後世に伝わり、槌子坂が発した信号はどこかで途絶してしまったとしか思えない。


子どものころ、近くに二度(生家として、また、三度目の転居時に)住んだことのある文豪徳田秋声(1871-1943)の作品にも出てこない。三度目の転居時、秋声(本名末雄)は13‐14歳。士族(父)の没落という時代背景のなかではあっても、最も多感なころだった。味噌蔵町裏丁(現兼六元町)の家は坂から100mと離れていない。


余談

味噌蔵町小は来春、材木町小と統合される。戦前までは男児校(材木)、女児校(味噌蔵)に分かれていた。「両校下は、あるときは大の仲よしの隣組であったり、ときには敵意をむきだしにしての競争相手だったりしてたがいに切磋琢磨しあう間柄にあった」(『金沢・町物語』高室信一、能登印刷出版部、1982)。ともに上級校が兼六中だから統合校の名称は「兼六小」に収まりそうである。「味噌蔵」は町名(1966=昭和41年、新住居表示制度)からも、校下名からも消えることになる。


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