金沢の坂道コラム

不老坂はその昔、御参詣坂と呼ばれていた - 長良坂を含む寺町台“御三家”のこと


寺町台の十一屋・野田方面に、長良坂(清川町-寺町1丁目)、不老坂(法島町-十一屋町)、御参詣坂(法島町-平和町2丁目)の3つの坂がある。犀川へ下りる坂はほかに都市計画道路の下菊坂などいくつかあるものの、藩政時代からつづく名のある坂としてはこの3つが御三家だろう。不老坂に「もう一つの御参詣坂」と呼ばれた時期があったこと、近道としての渡し舟があったことで3つの坂は機能的につながっていたことが読み取れる。

泉野村がけ上通り

寺町通りは、旧名・野田往還。金沢城の外堀と位置づけられていた犀川の向こう岸である南岸(左岸)を、西から東へ一直線に上る。海抜はざっと50-60mで、延長は約3km。野田山に前田家墓所ができ、野田往還と呼ばれるようになる以前は一帯の総称だった泉野の縁にある「闕(がけ)野」「がけの上野」の「がけ上通り」であった。農家が11戸あったことからきている十一屋村を中継点として、そこまでは寺院約20ヵ寺を配置する防御拠点、村を外れて墓所に向かう辺りからは松樹並木の参詣道とした。

3代藩主利常までの加賀藩事情を記録した『三壺聞書』によると、野田往還は1616年(元和2)、利常の命により藩祖利家の墓参のために普請された。野町広小路まで道がつながっていなかった時代、犀川大橋から蛤坂を上り鶴来街道と分かれて東上した。道幅4間ほど(7m余)と、当時としては異例の大動脈だった。城下町の整備と近郊道路の改修を急いだ利常は、このとき宮腰(金石)往還、石引道を併せ開発している。

大乗寺へ「ガッパ地蔵」

御参詣坂の坂標に「藩政時代、法島村から祇陀寺(ぎだじ)の向こうへ至る坂と、今一つ崖の下から桃雲寺手前の野田往来へ至る坂をこう呼んだ」とある。文面から、坂は二つあったことになる。一つは坂標の足もとの御参詣坂そのもので、後者の桃雲寺に向かう坂を指している。前者の「祇陀寺の向こうへ至る坂」はどこにあったのか。説明は「野田山墓地に参詣することからこの名がついた」とつづけて、終わっている。

坂標の説明はその多くが『金澤古蹟志』をもとにしている。同誌に御参詣坂についての記述はないようなので、さらに探すと、『亀の尾の記』に「法島村より祇陀寺の向うへ陟(わた)るを俗に御参詣坂といふ」とあった。祇陀寺(十一屋町)は曹洞宗の名刹・大乗寺の後押しで復興した寺で、市内電車が走っていた頃の「寺町終点」近くにある。終点は現在、段丘崖を切り拓いた長良坂とその上流170mにある不老坂の間を斜めに上がる下菊坂が拓かれて、寺町1丁目交差点になっている。野田往還時代は大乗寺へ向かう道との分岐点であり、道標として「従是南大乗寺道(これより南、大乗寺道)」と刻まれたガッパ地蔵(ガッパは頭部のできもの・腫れもののこと。治癒を祈願した)が建っていた。地蔵は現在、祇陀寺の境内に移されている。法島村を抜け、祇陀寺の向こうにある大乗寺へ参詣する人たちのための坂道、これも御参詣坂だったのだ。


「これより南、大乗寺道」と刻まれたガッパ地蔵

「これより南、大乗寺道」と刻まれたガッパ地蔵


“昔の名前”の御参詣坂


坂はどこにあったのか。藩政期の古地図を探してもそれらしいものはない。あるのは祇陀寺から寺町通りをはさんで犀川へ下りる、現在の不老坂だけである。縁起のよい名前になったのは明治に入ったばかりの戸籍編成のとき(『サカロジー』)とも、明治の中頃、上菊橋とつながったとき(『公民館活動と地域のすがた』)ともいい、それまでの呼び名は不明だ。近くに十一屋小学校裏の九十階段(平成の改修までは七十階段)があるが、幅1m余といかにも狭い。江戸が明治に変わり、そう呼ぶこともなくなった御参詣坂。前田家墓所へつづく坂とは別に、もう一つあった御参詣の坂、それが不老坂なのである。

犀川東部一帯を占めた法島村は、旧法島町を経て住居表示変更で清川町などに編入・分割され、いしかわ子ども交流センターの周りだけが法島町として残った。かつては同じ法島村内だった御参詣坂と不老坂は1.5kmほども離れていて、坂同士が途中で結ばれていたとは考えにくい。御参詣坂は前田家墓所の墓守を務める桃雲寺へ、不老坂は祇陀寺を経て加賀藩老本多家の菩提所である大乗寺へ通じていた。1697年(元禄10)、本多町にあった大乗寺が野田山の麓に移転したことで往還は途中で分岐した。御参詣坂も殿様と筆頭家老、双方の御用達を受けて二つあったのである。

上舟渡(かみのふなわたし)

藩政期後半、大橋しか橋がなかった犀川に渡し舟が二つ架かる。一つは現在の桜橋付近にあった「下舟渡(しものふなわたし)」、もう一つは十一屋村の百姓衆が管理した「上舟渡(かみのふなわたし)」。上舟渡は下菊橋の少し上方に舟着き場があった。下舟渡が石伐坂を上って寺町台の半ば辺りへ出るように、上舟渡はかつてジャ谷とも呼ばれた坂を上って足軽長柄衆(ながえしゅう)の住む台地へと出た。長柄は長柄槍のことで「ながら」とも読み、町名になり坂の名になった。

古地図で確かめるため、幕末期の『安政頃金沢町絵図』(石川県立歴史博物館蔵)を参照する。1854-59年の様子であり、野田往還の開通時よりかなりの時を経ているが、よほどのことがない限り変容するものではないという坂道の性格を踏まえての選択である。祇陀寺を分かれ道に置いて、下に長良坂、前に不老坂と思われる坂が描かれている。御参詣坂は犀川から直接ではなく、十一屋村の外縁を回り込む道を経て往還へ上っている。上舟渡は対岸から3つの坂へたどりつく手近な交通手段だった。


「宝嶌」と書かれた法島から御参詣坂が上がる。祇陀寺(右下)の前にはかつて御参詣坂と呼ばれた不老坂がある(『安政頃金沢町絵図』より)

「宝嶌」と書かれた法島から御参詣坂が上がる。祇陀寺(右下)の前にはかつて御参詣坂と呼ばれた不老坂がある(『安政頃金沢町絵図』より)


19世紀に制作された『金沢城下図屏風(犀川口町図)』(同館蔵)に渡し舟が一艘描かれている。『十一屋校下史誌』は描写する。「対岸へ手繰り綱を渡し、その綱を手繰ることによって渡し舟が往復した。小型の伝馬船程度のもので、幅の狭い川舟と違ってかなり幅広く、いたって安定性の高いものと思われます。三叉に組んだ杭を川原に固定させて綱を張り、船頭一人でその綱を手繰って向かい岸に渡します。舟には藁籠(わらかご)に野菜を入れ、それを担ぐ人と馬、子連れの武士も同舟しています。立ったまま乗っているのは、おそらく川を渡るのにそんなに時間がかからなかったのでしょう」。今と変わらぬにぎわいが伝わってくる。


渡し舟(『金沢城下図屏風(犀川口町図)』より)

渡し舟(『金沢城下図屏風(犀川口町図)』より)


長良坂

長良坂


不老坂

不老坂


御参詣坂

御参詣坂


<参考資料>


  • 『金沢城下南部の歴史』新保望、1987
  • 『十一屋校下史誌』十一屋校下町会連合会、1950
  • 『公民館活動と地域のすがた』城南公民館創立60周年記念誌、2013

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