金沢の坂道コラム

藩主の墓参 ―「汲古雑録」に見る御参詣坂

対の小立野台が手にとるように見えたであろう御参詣坂

対の小立野台が手にとるように見えたであろう御参詣坂


御参詣坂(法島町-平和町2丁目)は、藩主が墓参で通ったことからその名がきている。氏家栄太郎氏(1863-1939)の『汲古雑録』によると、寺町台の野田往還(現寺町通り)を駕籠で来た藩主は、野田山の前田家墓所での参拝が終わるとゆかりの天徳院(小立野4丁目)、宝円寺(宝町)に向かった。来た道を戻り、対を成す小立野台を遡る。ときに、近道をして御参詣坂を下り犀川に仮設された舟橋を渡った。元金沢市近世史料館専門員屋敷道明氏は「たまに、と言っていいほどの回数だった」という。ご参詣の坂は下りだけに利用されたことになる。


前田家墓所

前田家墓所


ご参詣、その次第


汲古雑録は、年頭の儀式や作法など藩政末期の加賀藩の史実・事跡を記録している。そのうちの「盂蘭盆御廟御参詣」の項。藩主は陰暦の7月15日、墓守寺の桃雲寺(野田町)と墓所に次いで天徳院、宝円寺を巡拝する。天徳院には第4代と第9代の墓と位牌があり、宝円寺には歴世の位牌がある。「藩侯(藩主)在国の際はこれら3ヵ寺の廟所に参詣する」のを習わしとし「その次第概ね左の(次の)如し」である。

駕籠を中心とした行列は、犀川唯一の橋である大橋を渡り野田往還を東上、午前五つ時(8時)に旧野田村入る。ここから墓所までは盂蘭盆中、城中三の丸下馬内の格式となり仮番所が建ち足軽が詰める。藩主は桃雲寺で裃の正装に着替えたあと、墓所まで駕籠を乗りつける。駕籠脇のお供と草履取り、六尺(駕籠かき)が付き従い、行列のお供は桃雲寺に控える。墓前には白木の台に花と香炉が飾られる。読経はなく切籠(きりこ)もない。石灯籠に火を点すだけである。

参拝は、本式には藩祖利家公に始まって2代、3代と順に回るが、山の上り下りに時間を要するため、藩祖以下は略式の道順をとる。参拝が終わると再び桃雲寺で小休止。天徳院で昼食をとることになっているが、午後の八つ時(2時)を過ぎることも多く、途中のお寺で「冷素麺」を食べることも。3ヵ寺には小将(小姓)と医者が詰め、万全の態勢がとられた。年寄衆、寺社奉行が一人ずつ先詰めしていた。


桃雲寺

桃雲寺


天徳院

天徳院


宝円寺

宝円寺


崖を下り、舟橋を渡る


御参詣坂のくだりでは「御参詣坂の下犀川へは仮の舟橋懸かる」とあるだけである。ただ、添え書きされた「お目見え以上の士分参詣の次第」に、帰途は「野田仮門前(現陸上自衛隊金沢駐屯地付近)より乗馬し、御参詣坂より舟橋を渡り」天徳院、宝円寺へ向かった、とあり、お目見え以上の侍も藩主と同じコースをたどったことがわかる。

お目見え以上の士分とは、一般に人持組頭(八家)、人持、平士、与力、歩、足軽、小者に7区分される直臣団の平士までをいい、殿様に御目通りを許される御昵懇(おじっこん)の侍である。千石以上(~一万四千石)の人持で70家、平士で1,400家あったとされ、これだけの人数がお供を伴って野田村に殺到した。「馬の上り下り等に誠に困難を極め」、家老以上の人が通るときは「歩を停めて挨拶する」など「誠に筆紙に尽くし難き困難」が展開された。この間、空腹を満たすため懐中にした握り飯を駕籠のなかで食べる人、お寺の軒先を借りて焼き飯を食べる人もあった。墓参の日が少しは分散されたにしても、一帯は大混雑だったに違いない。

ただ、このコースには「たまに、」の注がつく。『金沢市文化財紀要』(2003)で「桃雲寺と野田山墓地」について資料紹介した屋敷氏によると、加賀藩史料など他の史料に照らして「野田往還を上り下りするのが普通で、御参詣坂を使う例はごくわずか」だったという。史料には「たまに、」の理由が示されておらず、「急ぎのとき、あるいはその時どきの殿様の気分次第ということも考えられる」と屋敷氏。藩主以下は悪路を踏ん張って下りる。下りた先には幾艘もの小舟を横につないだ舟橋が渡され、ここも揺れるのを踏ん張って通る。手間はかかるが、渡し舟より安全な舟橋を使ったとみて差し支えないだろう。

「たまに、」が欠落

天徳院境内の前田家墓所は1952年(昭和27)、小立野小学校建設のため野田山へ移される。そのもようを見た人が『いし曳』(1986=昭和61年度小立野婦人学級)に綴っている。藩主の柩は人目に触れないよう取り計られたらしいが、夫人の場合は目撃できたようだ。「柩の中は水でいっぱいです。水面に浮かんだお顔と髪が真っ先に目にとび込んできました。細くてきれいな指も見えました。まるで生きていられるようです。誰もが思わず合掌しました」。現在は全藩主の墓が野田山にある。

野田山墓地に関する論考は「驚くほど少なく」(金沢市文化財紀要)、前田家墓所が野田山につくられた経緯も定かではない。氏家氏には、市内を歩き回って書いたされる稿本『温知叢誌』があり、これより先に刊行された汲古雑録も氏が亡くなった翌年に遺稿がまとめられたものである。「たまに、」という部分が欠落しているものの、藩主のご参詣風景を目の当たりにした人がまだ現存していたであろう時代の見聞録としてその信憑性は高いとみられる。

なお、もう一つの御参詣坂が通じていた(『亀の尾の記』)とされる藩老本多家の菩提寺・大乗寺の参詣事情については触れられていない。野田山と隣り合う丘陵であり、ここも相当の混雑を見たであろうことは想像に難くない。


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