鬢(びん)付けの香りを残して ― 梅ヶ枝坂
「びんつけ」といえば、お相撲さんを連想する人が多いのではないか。かくいう筆者がそうだからいうのではないが、それほど日本髪を結う人は少なくなった。明治維新のザンギリ頭を持ち出すまでもなく、洋髪の前はみんな日本髪だった。男も女も長い髪の形を固めるのに鬢付け油を使った。
旧「味噌蔵町間ノ町(あいのまち)」
尾張町の老舗「木倉屋」が「梅ヶ枝」(うめがえ)という鬢付け油を製造・販売して好評を博したのは江戸時代の初めのことだ。いまは「袋もん(物)屋」を看板にする木倉屋もかつては鬢付け油が売りものの“先端企業”だった。温知叢誌にいう。「昔時、片町鬢付ケノ老舗木倉屋ノ先代、此処(ここ)ニテ鬢付ケ製造ノ方法書ヲ拾イテ、製造シ、為ニ家産ヲ興ス。故ニ同家製造鬢付ケノ銘ヲ梅ヶ枝ト云フナリ」。此処というのは銘のもととなった「梅ヶ枝坂」をいう。
現在の兼六大通り(国道159号線)が賢坂辻通りと呼ばれる以前の「剱(剣)坂」のころ、ここは南に入れば小将町、北に下りれば味噌蔵町間ノ町(あいのまち=現兼六元町)の十字路になっていた。兼六園裏の「八坂」(石引3丁目-東兼六町)から下りてきた緩い坂道が、十字路を渡り、源太郎川(東外惣構堀)に沿ってさらに崖をくだった。この傾斜の強い路地を梅ヶ枝坂といった。
「賢坂辻通りの幅はバスがようやく通れる約4m、梅ヶ枝坂は3m弱」と現在、坂付近に住む人たちは覚えている。剱坂時代はどちらももっと狭かったろうし「左右土居(土手)迫リ、古木老樹茂リ」(温知叢誌)とくれば、当時の坂周辺の、外総曲輪の様子の、およその見当がつくだろう。
「どんだくれ」木倉屋
木倉屋の所在地が片町となっているのは、明暦3年(1657)に開設した大店があったからで、この店は先の大戦後に閉店するまで300年近くにわたって存続した。営業は明治15年(1882)に設けた尾張町の店が引き継いでいる。『七百二十日のひぐらし』(北國新聞社、1991)、『どんだくれ人生』(同、1993)を著した粋人木倉屋(本名:伊崎)銈造さん(1911-2008)は15代目にあたる。七百二十日は「しっちゃくはつか」と読み、盆と正月を除く一年360日を商人はひとの倍働いた、の意、どんだくれは「風流で粋な」という意味である。
木倉屋の「固練りべんつけ・梅ヶ枝」について『七百二十日-』は書く。「大正中期より商家のおかっつぁん(奥さん)連にて丸まげが大流行で、髪型も高からず、低からずの当世はやりのハイカラ型は(中略)遠く県外の方々からも、きそって粋な掛作り辺り(浅野川大橋界隈)へ買い求めにこられたものなり」。その効能については「あのほんのりした香りが殿方衆の胸をかき立てたものです」(『どんだくれ-』)。
話を戻そう。『尾張町界隈の老舗と名所の由来』(尾張町商店街振興組合・尾張町若手会編、1987)では、木倉屋が万延元年(1860)に奉行所に提出した由緒帳をもとに「(それまでとくに定まった商売をしていなかった)5代目長右衛門がなにかいい商売はないかと田井天満宮(現椿原天満宮)へ祈願したところ、ある夜、夢枕のお告げで鬢付け油製造の技法を伝授される。その名も『梅がえ』と名付けて売り出したところ…」大当たりしたという。温知叢誌とはだいぶ違う。「梅がえ」命名の説明もない。なぜ、田井天満宮なのか、については、17代目にあたる株式会社「木倉や」伊崎祐造代表取締役専務(48)が明かしてくれた。5代目の住まいが田井村(現田井町)だった。
伝説化した?「一世風靡(ふうび)」
夢枕説について、伊崎さんは味噌蔵町小学校時代に先生から教わった。親から、ではないだけに「へぇーそうなのか」の思いを強くしたという。梅ヶ枝坂説については「初めて聞いた」といい、菅原道真と梅の関係から「天神さんの飛梅からとったのかな?」と肯定的である。その上で、付け加えた。20年ほど前に自宅の仏壇を整理したところ、表書きに「だれにも見せるな」と記した帳面が出てきた。大福帳を小型にしたような帳面を開くと、鬢付け油の製法がびっしり書き込まれている。著名な研究者に鑑定してもらった。夢枕説、梅ヶ枝坂説どちらともつかず、いつのものかも不明だった。
どれが本当なのか。伊崎さんはいう。「鬢付けを扱っていないいまとなっては、知ろうとも思わない。すでに伝説の世界だ」。鬢付けから袋もんに商いの軸足を移したのは銈造さんの父の代。縫いもん屋から嫁いだ銈造さんの母の手仕事が影響している。「ほかの店(老舗)と違って、なりわいが変わった。だけど、先祖代々のお墓は守っている、それでいいんじゃないですか?」。
絶滅危惧種の「槌子坂」「梅ヶ枝坂」
小立野丘陵地の端を意味する剱先だけに付近に坂は多い。梅ヶ枝坂から大通りに沿って西へ約100m移動すると、本欄でも取り上げた槌子(つちのこ)坂に出くわす。槌子坂がそうだったように、梅ヶ枝坂も知る人はほとんどいない。ただ、梅ヶ枝坂については理由があった。坂の位置が変わっていた。兼六大通りが一般国道となって拡幅された昭和40年代、坂の下り口が西へ10mほどずれて北陸銀行賢坂辻支店横から下りる現在地に移った。源太郎川に沿って左へ大きくカーブしていた坂はほぼ一直線になった。延長約70mの坂のうち上3分の1は民家が立ち退いて坂になり、もとの坂跡には民家が建った。
たかだか50年、半世紀前の話だ。それでもう、梅ヶ枝坂の名は絶滅しかかっていたのだ。旧の坂に接する十字路の角家が自宅だった高松利行さん(67)も梅ヶ枝という名前については知らない。坂の途中に赤尾という家があったので子供のころは「赤尾の坂」と呼んでいたという。ここで生まれ育ち、道路と人の流れを目の当たりにしてきた高松さんだが、「知らんちゅうのは悔しいね」と無念そう。そしてつぶやいた。「母が知っているかもしれない。だけど、百歳を越えてもう無理だ」。